ここまでに書き残したこと
◇寺内の古四王神社
 土崎湊から久保田の城下への途中、寺内という所に古四王大明神というお社がある。
 (寺内から御城下への道筋は前にも書いたが、城下へ急いでいたので詳しく書けなかった。それで、ここに神社のことを書く。順序が前後してしまうが、追加で書いておくことにした)
 神社の山から土崎湊の浜を見渡すと、南には上野荒谷から仙北へ通う舟の川筋(雄物川)を見下ろし、良い風景だ。
 この神社の御祭神は、年を経た亀(注1)を祀っているという。それで古四王神社というのだそうだ。俗には「こしょう様、こしょう様」と唱える。
 正月と九月八日に、ことのほか多くの人が参詣する。中でも正月の八日には、佐竹の御家中、それに町方の人も「寒参り」といって、雪の中でもご家中は帷子かたびら麻裃あさがみしもを召し、町人も一重の着物に襦袢じゅばん、または赤裸の素足で参詣する。
 鳥居の前には茶屋が三、四軒あり、正月と九月はとてもにぎわう。
 ここに伽羅きゃら(注2)橋という小さな橋がある。そのわきに、「こうろぎ」と言って、下層民でも普通の町人でもない人たちがいて、袋を持って御城下や郊外の村々をまわり、門前に立って「こうろぎ」と言うと、家々では米や銭をくれてやる。
 これは、どういう人たちなのかと尋ねたら、昔この辺りを支配していた秋田城之助殿(注3)の家来で、ここに落ち着いた者が六人いた。もともとは武士だったので、農業や山仕事はできない。先祖から持ち伝えていた伽羅の木を細かく切って角々に立ち、「香炉木こうろぎを買わぬか、香炉木の御用はないか」と売り歩いていたが、そのうちに伽羅を売りつくしてしまい、しかたないので物貰いになったということだった。
 それで今でも、門前に立っては「香炉木、香炉木」と言って歩くのだそうで、この橋も伽羅橋というのである。香炉木売りとも、または香六崎とも言うそうだ。
 なるほど、そういうわけがあったのだ。
 橋の先に、五百羅漢の寺(注4)がある。これは、どこからか来た信心深い人が、丹精を込めてこの五百羅漢を建立したという。今では一寺一山となり、久保田のお屋形様がお立ち寄りになられた時の座敷まで造っている。
 ここから五、六丁先に、お仕置き場(注5)がある。
 それから、また三、四丁先の橋(注6)を渡ると八橋村である。家の数は百四、五十軒もありそうだ。ご城下のお侍、それに町の人たちの春先の行楽地で、料理茶屋、飴屋、餅屋、菓子屋などがたくさんある。
山王の社(注7)があって、神主は土崎の大隅殿とおっしゃる。大隅殿の弟で紋次殿と申される方は、先年、我らが土崎湊に住んでいた節に兄弟同様にしていて、紋次殿は湯屋を営んでおられた。紋次殿は故人になられ、その女房が今では新地に「かね木」という遊郭を開いている。
東照宮のお社(注8)もある。別当は寿量院様と申され、宮家につながる方で、江戸・上野の東叡山からこちらにお起こしなされたということだ。
 (この八橋で、貝焼風呂きゃふろ)(注9)というものをこしらえている。ほかの所でもできるが、ここで作る貝焼風呂は火が消えにくく、名物だという)
 
◇錦木塚の詳細(注10)
 南部の毛馬内から花輪へ出る途中に、錦木塚がある。ここを毛布けふの里という。
 昔々、この里へ、京都から落ち延びて来られた姫がおられた。毎日、細布というものを織っていたところ、草木村という所の若者が姫を恋慕って、姫の門前に錦木という木を削って美しく染め、立てておく。女にその気があれば、これを取り入れるという。つまり、恋がかなうしるしだということだ。
 その男は来る日も来る日も錦木を持って来て立てるのだが、木は取り入れられることもなく、若者は恋の病で死んでしまった。
 その後、姫も亡くなられたので、この場所に埋めて姫塚と名付けた。そのうちに、毎年七月になると、姫塚まで草木村からその男の魂が通う道の跡ができたという。
 姫塚のそばに杉の大木がある。この杉に大きな蛇が棲みつき、春の頃、ここに遊山などに行って弁当や酒肴などを取り出すと、杉の枝から蛇がぶら下がり、飯や肴などを与えるとそれを食って立ち去るという。これは、姫の機織り機の棒が蛇に変じたのだと言い伝えられている。
 この姫をかくまったのは、古川村の黒沢角兵衛という人で、今もその家の跡がある。代々、布を織って家業としていたという。
 古い歌に「錦木はたちながらこそくちにけりけふの細布むねあわづして」(注11)とあるが、細布は幅が細いのではなく、糸が細いので細布というそうだ。
 この細布は今でも、毎年一反ずつ京都へ運ばれて、公家の奥方の腹帯にされるという。京都に上らせる細布を織るには、主は七日間精進潔斎し、布を織りあげるまでは部屋を閉め切り、人には会わないと聞いている。
 黒沢家の別家が大館に来て、秋田城之助殿の家臣となって、黒沢安右衛門と申されるそうだ。今も、その家の跡が大館にあるそうだ。

◇隠し子から盛岡藩主となった殿様
 毛馬内の桜庭肥後様とおっしゃる方は五千石を領して、ご先祖は桜庭兵助という(注12)。
 南部の殿様が三戸から盛岡へ引き移られた時(注13)、国中を巡見され、宮古という所から花輪村(注14)に来てお泊りになられた。田舎のことで淋しく、ここに見目の良い女性がいれば酒の酌をさせたいとおっしゃるので、庄屋の山崎善右衛門という人の娘がたいへんな美人だったので差しだしたところ、非常に気に入られ、この娘を寵愛して三十日ほども逗留してからお帰りになった。
 この娘が見重になったので、それを申し上げたところ、盛岡にお引き取りになり、ご城内に御殿をこしらえて隠しおかれた。そのうちに男子が誕生した。しかしながら、奥方様はじめ家臣の方々にも内緒にしておいた。
 この男の子が五歳の時、殿様が急病で亡くなってしまった。奥方にも、側室にも男子がなかったので、この子を養子とすることになり、桜庭兵助殿が子供の寝間に忍び込んで、五歳になられた男子を抱き抱え、家来の和井内佐角という者に背負わせ、江戸表へまず旅立たせた。自分はあとから駕籠に乗り、急の御用だと言って江戸へ上り、江戸詰めの家老衆と相談し、この子を世継ぎとしたい旨をご公儀に申し上げて、世子とした。
 桜庭兵助が江戸へ上った際には十六人を共に連れ、きな粉餅を弁当にして、昼夜の別なく急いで江戸に到着したという。
 和井内佐角が五歳の男の子を背負って、一ノ木戸境の明神まで来たら、子供が母を慕って泣き出し、いろいろなだめすかしても泣きやまない。その時、茶屋の老婆がきな粉餅を差し上げてなだめたら泣きやんだので、この子が殿様になって(注15)初めて参勤交代で江戸へ上る時、この茶屋に立ち寄られて、この老婆にごほうびを下された。それで、今でもこの餅を「南部餅」とも、「南部姥」ともいうそうだ。これが、境の明神の「南部餅」(注16)の由来である。
 兵助はこの時から、桜庭肥後殿と改名され、代々、五千石の御家老格となった。その家来にもそれぞれ褒美が下され、和井内佐角殿は桜庭家の家臣だったが、盛岡に召された際には騎乗を許された。また、江戸へ上った十六人も城下へ出る時には領地持ちの武士の格式で遇された。
 この吉例によって、今も江戸へ殿様がお上りになる際は、生まれ育ったお部屋のある御殿においでになり、密かに忍び出た門からお立ちになられる。その際、お供の家来たちにきな粉餅を下され、殿様も召し上がられてから出発されるということである。
 殿様の母親の実家である花輪村の善右衛門には、津軽の九十九里という川筋(注17)の一円を下されたそうで、毎年、善右衛門から鮭を百本ずつ殿様に差し上げたという。

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注1 御祭神は、年を経た亀=寺内の古四王神社の祭神は武甕槌(タケミカヅチ)神と、大彦命(オオヒコノミコト)なので、「亀」は祭神ではなく、御神体かと思われる。神仏混淆だった江戸時代、この神社には「亀甲山」という山号があった。
 祭神のうち、武甕槌神は、天孫降臨の前に高天原たかまがはらから地上に派遣された武神。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られる神でもある。
 一方の大彦命は、第11代垂仁すいにん天皇の母の父、つまり天皇からすれば外祖父。第10代崇神すじん天皇は服属しない人々を討伐するために四方(北陸、東海、西海、丹波)へ四道将軍を派遣したが、このうち北陸へ行ったのが大彦命。社伝によると、大彦命が武甕槌神を祀ったのが神社の創始で、その後、『日本書紀』にこの地方の蝦夷を征伐した記されている阿倍比羅夫あべのひらふが大彦命を合祀し、古四王神社と命名した。
 この阿倍氏一族は、大彦命の末裔とされている。
しかし、「奥のしをり」で「亀を祀っているから古四王神社」と書いている理由は、よくわからない。中国の神話に登場する「四神しじん」という霊獣のひとつ、「玄武」は亀で、北方を鎮護するとされているから、都から見て北の方角にある神社と結びついたのかもしれない。

注2 伽羅=アジアの熱帯地方に育つジンチョウゲ科の樹木、「沈香じんこう」から採取する天然香料の中で、濃い茶色の優良品を「伽羅」と言う。高価な輸入品だが、「香炉木」も一般的に使われていた別名。

注3 秋田城之助=正しくは、秋田城介。古代、北国の蝦夷に対して置かれた秋田城の司令官。後に陸奥国司の次官の役職となり、秋田城が廃止された後も武官名として任命された。戦国武将の安東実季あんどう さねすえが秋田湊(秋田市土崎)を本拠地とした際に秋田城介を自称し、姓も「秋田氏」を名乗った。
 常陸から佐竹氏が秋田に入部したのと入れ替わりに、秋田実季は常陸・宍戸5万石に移封され、その子の俊季の時に三春(福島県田村郡三春町)に移り、明治維新まで11代続いた。「こうろぎ」は、秋田氏の移封の際、秋田に残った人たちである。

注4 五百羅漢の寺=西来院せいらいいん。羅漢像を彫ったのは能代の船頭。「久保田城下で年を越す」の項の「注2」参照。

注5 お仕置き場=八橋に入る手前に、罪人を死罪にする草生津くそうづの刑場があった。執行日は毎年10月27日に決まっていたという。

注6 三、四丁先の橋=草生津川に架かる面影橋。処刑場へ向かう死刑囚が、この橋の上から、川を鏡として自分の顔を最後に見たことから「面影橋」の名がついた。なお、「くそうづ」の語源は「臭水」で、石油のこと。この一帯には古くから石油がわき出ていて、川面を五色に染めていた。

注7 山王の社=久保田城下外町の鎮守、日吉八幡神社。「久保田城下で年を越す」の項の「注4」参照。

注8 東照宮のお社=東照大権現、つまり徳川家康を祀った神社。江戸・上野の東叡山から来たと書いているのは、徳川家の菩提寺である天台宗の東叡山寛永寺のこと。初めは江戸の鬼門に当たる方角に幕府の祈願寺として建てられ、東の比叡山という意味で「東叡山」、その時の年号が「寛永」だったので寛永寺と名付けられた。江戸の徳川家の菩提寺は、その前から芝の増上寺があったが、3代将軍徳川家光の遺言で寛永寺も菩提寺とされた。その後まもなく、天皇の皇子で仏門に入った法親王を代々の住職として迎えるようになった。八橋の東照宮の別当を「宮家につながる方」としているのも、徳川将軍家にゆかりの神社のためだろう。ただし、これが史実かどうかは確認できない。

注9 貝焼風呂=ホタテガイの貝殻を鍋代わりにする、1人用の鍋料理が貝焼(かやき)で、貝殻を乗せるミニ七輪が「きゃふろ」。「貝風呂」、あるいは「粥風呂」、または「食(け)の風呂」の転訛と考えられている。なお、秋田県教育委員会が編纂した『秋田のことば』でも「風呂」と表記しているが、茶席で湯をわかす炉を「風炉ふろ」と言い、火を焚く道具なので、漢字としては「風呂」より「風炉」の方が適切と思われる。

注10 錦木塚の詳細=「八戸から鹿角へ」の項で、(錦木塚の由来は、あとで詳しく述べる)と書いた「詳細」がこの部分。

注11 「錦木はたちながらこそくちにけりけふの細布むねあわづして」=『後拾遺集』にある能因法師の歌。『後拾遺集』では「錦木は立ながらこそ朽ちにけ今日の細布胸あはじとや・・・・・」となっており、語佛師匠の書き留めた歌とは若干の相違がある。

注12 先祖は桜庭兵助=桜庭氏は、南部氏初代光行以来の譜代の家臣。しかし、鹿角の毛馬内に領地を得たことはなく、「奥のしをり」の記述は、同じ譜代の家臣である毛馬内氏と混同していると思われる。
鹿角の毛馬内は、アイヌ語に由来する地名。南部氏の庶流である秀範の所領となり、秀範は毛馬内氏を名乗った。毛馬内氏は後に、花巻城の城代となる。
 桜庭兵助は実在し、「奥のしをり」のモデルにもなった藩主継承譚にもからむが、桜庭氏で有名なのは、父の直綱と、祖父の光康で、南部氏が戦国時代末期に大きく版図を広げる際に活躍した。「奥のしをり」の時点で「先祖は」と名を出すのなら、光康か、その子の直綱を挙げるべきだろう。

注13 南部の殿様が三戸から盛岡へ引き移られた時=南部氏は、八幡太郎源義家の弟、義光を祖とする源氏の流れで、義光から4代あとの光行の時、父親の領地の一部だった甲州(山梨県)巨摩郡南部郷を与えられたことから南部氏を名乗るようになった(光行は3男で、それ以前に所領はなかった)。これが南部氏の初代とされる。
 南部光行は、源頼朝の奥州藤原氏攻めに活躍して、「糠部ぬかのぶ五郡」の地頭となった。この所領が正確にはどこなのか諸説があるが、おおよそ現在の岩手県最北部と青森県全域、それに秋田県の鹿角地方とみられている。領地に赴任した光行は、三戸(青森県三戸郡三戸町)を居城とした。その子は一戸、三戸、四戸、七戸、八戸、九戸とそれぞれに領地を分け与えられたが、三戸南部氏が本家とされた。
 戦国時代、南部氏26代を継承した信直は、南進して現在の北上市付近まで攻め取って、「南部中興の祖」と言われる。さらに豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、秀吉の奥州仕置き(領地の再配分)を不満とした一族の九戸政実が天正19年(1591)に起こした反乱を、秀吉の援軍を得て鎮圧した後、居城を盛岡に移すことにした。そしてほぼ出来上がった盛岡城に住んだが、関ケ原の合戦の前年、慶長4年(1599)10月、54歳で病没した。盛岡城を完成させたのは、跡を継いだ利直で、これが盛岡藩初代である。
 「奥のしをり」が伝える話は、盛岡に築城した南部信直ではなく、盛岡藩初代の利直のようだ。
 
注15 宮古という所から来て花輪村=宮古は、現在の岩手県宮古市。リアス式の三陸海岸で、最も大きな宮古湾の奥深くに位置する。江戸時代以前は寒村だったが、盛岡藩初代の南部利直が藩の外港と定め、町を作り、盛岡まで約100`の街道を整備してから大発展した。
 語佛師匠は、「奥のしをり」の旅では宮古へは行かず、盛岡から八戸、そして鹿角へと移動しているので、誰かから聞いて書き留めた逸話に出て来る毛馬内、花輪を鹿角地方と勘違いしている。花輪村は、当時の閉伊へい郡花輪村のことで、現在は宮古市内、花輪小学校のある辺り。
 現在も宮古市を中心に上閉伊郡、下閉伊郡があるが、この辺りは戦国時代、鎌倉幕府の御家人から続く閉伊氏の勢力圏だった。それを南部信直の家臣、桜庭光康が攻略して南部領となり、桜庭光康は晩年に閉伊郡を知行地として与えられ、現在の宮古市千徳町を本拠地とした。宮古市長根の長根寺に桜庭家累代の墓がある。
 
注16 この子が殿様になって=語佛師匠は長々と書き綴っているが、この物語に全面的に合致する盛岡藩主はいない。かろうじて、3代藩主、南部重信がそのモデルと思われる。
 初代利直の跡は、3男重直が相続したが、この人はどういうわけか、世子を決めずに世を去り、「跡継ぎのいない家は改易」という幕府の定めに従えば、盛岡藩は消滅する危機に見舞われた。結果として、3代藩主となるのは、初代利直の5男、つまり重直の弟、重信である。この人の出自、藩主になるまでの経緯には、「奥のしをり」の記述にも似た物語がある。
 南部利直は元和元年(1615)、領内巡視で宮古を訪れた際、郷士花輪内膳の家に泊まり、娘の松子と戯れたという。一説には、松子は宮古刈屋村の箱石某の娘で、藩主に酒の酌をしたのが縁で寵愛をうけたという。いずれにせよ、この娘が翌年、男児を出産した。利直は桜庭直綱を派遣し、この男児の誕生を確認させたが、公表しなかった。養い親である花輪内膳は、この子を近くの寺に託して読書や習字を学ばせた。
 寛永元年(1624)、桜庭直綱がこの子を迎えに行き、盛岡に連れ帰った。藩主利直は、この子に花輪彦左衛門重政と名乗らせ、760石の扶持を与えた。花輪重政は寛永15年、妻を迎える。正保4年(1647)、盛岡藩家老の七戸直時が死去し、後嗣がいなかったので、花輪重政に跡を継がせ、重政は重信と改名した。重信は2300石の大身となった。
 そして寛文4年(1664)8月、2代藩主、南部重直が世子を決めないまま江戸藩邸で没し、盛岡藩は存亡の危機にさらされることになる。
 重直が危篤との報せがあり、家臣に勧められて重信はとりあえず江戸へ向けて旅立った。途中の桑折こおり(奥州街道の宿場。現在の福島県伊達市)で重直死去の報せが届き、重信は引き返そうとしたが、江戸家老から上洛を促す連絡があって重信はそのまま江戸屋敷に入った。そして密かに老中稲葉美濃守に進退をうかがうと、「悪いようにはしないから、ひとまず帰国して、沙汰を待つように」と言われ、重信は帰国した。
 そのころ、盛岡藩内では藩主の後継をどうするかで、3つの派閥ができていた。まず、重信を押す一派。八戸南部氏を推す一派。それに、「徳川将軍家から人を迎えよう」という一派だった。
 このうち、重信を推挙したのは家老の毛馬内三左衛門の一派で、「毛馬内党」と呼ばれた。彼らが幕府に差し出した「重信を後継に」という訴状の中に桜庭兵助の名がある。
 11月になって幕府から呼び出しがあり、老中酒井雅楽頭から「盛岡10万石のうち8万石を重信に、残り2万石は弟に与えて大名に取り立てる」との決定を伝えられた。そして12月15日、重信は将軍徳川家綱に拝謁して正式に藩主の座に着いた。
 この時、2万石の大名に取り立てられた弟というのは、母方の姓を名乗っていた中野数馬というわずか200石の藩士だった。城地が八戸に決まり、名も直房と改めたのは翌年のことで、これが八戸藩の始まりである。
 ……長々と「史実」を書いたが、これは歴代藩主の治績を詳述した『南部史要』に準拠した。ここには、語佛師匠の聞き書きによる「奥のしをり」を連想できる部分もあるし、明らかな相違点もいくつかある。
 まず、重信を産んだのは「庄屋の娘」ではなく、「松子」という名前の女性だったこと。この女性を盛岡に引き取ったことはなく、ましてや御殿を与えたという事実もない。松子は終生、故郷を離れず、花輪村で没している。ただし、『南部史要』にも誤りがあって、桜庭直綱は元和6年(1620)に没しているので、寛永元年(1624)に花輪村へ男子を迎えに行ったのは、息子の桜庭兵助のはずだ。
 次に、父親の利直は寛永9年8月に江戸藩邸で没したが、急死ではないし、3男重直を世子として届けていたので、相続の紛糾もない。この時、重信は満16歳になっていた。
 南部重信が3代藩主となったのは、48歳だから、事実とは全く異なる。そして藩主の座にあること29年、78歳で隠居し、87歳で没した。新田開発に努めて幕府に申請し、元の10万石に復するなど数々の治績を残し、盛岡の歴代藩主の中でも名君と評されている。

注17 境の明神の「南部餅」=この場所は不明。「南部餅」も現在までは継承されていない。想像をたくましくすると、幕府から呼び出しを受け、藩主決定の沙汰をうかがうために盛岡を出発した際、重信を推挙した「毛馬内党」の面々が桜庭兵助の屋敷で門出を祝し、その多くが伊達氏の仙台藩との国境である鬼柳(北上市)まで重信を見送ったと記録されているので、「境の明神」はこの近辺かと思われる。しかし、「奥のしをり」の物語は、ほとんどが創作であり、時代が下るにつれて様々な脚色の尾ひれがついているので、「奥のしをり」の旅の当時にはあった「南部餅」の由来話が紛れ込んだのかもしれない。

注18 津軽の九十九里という川筋=不可解な一節だ。盛岡藩の藩主が、他国の津軽藩にある川筋を与えることは考えられない。原文は「津軽名九十九里と申川筋」で、「名」の字のわきに(カ)という注釈がついている。これは、原書を解読する際に、どちらの字か確信がなかったのかもしれない。もう少し考えると、これは「石」という字の崩しを読み違えたのかとも思われる。というのは、宮古市の南に隣接する下閉伊郡山田町の山中に端を発して、宮古湾に注ぐ津軽石川があるからだ。
 津軽石川は、今もたくさんの鮭が産卵のために遡上する川として知られ、河口で鮭を捕獲し、採卵して人工ふ化させ、稚魚を放流している。別名「鮭川」ともいう。産卵期を迎えた鮭のオスは、鼻先が下に向かって曲がるので、昔から「南部鼻曲がり鮭」と呼ばれて有名だった。
 「九十九里」というのは、非常に長い川という意味か、または「九十九」には、九十九折り(つづらおり)という言葉のように「くねくねと曲がる」という意味があるので、山間を縫うように流れる津軽石川の川筋の形状を示す別名かとも思われる。ただし現在は、この別名は聞かれない。
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