秋田より津軽まで |
◇津軽の印象
津軽での物の売り買いには銀を使う(注1)。銀一匁は六十文、一分は六文である。銭相場は金一分が銀二十八匁、二朱は十四匁だ。米は当時、四斗が一俵で銀十八匁くらい(注2)だった。酒は一升が銀二匁五分くらいで、極上の酒(注3)だった。すべて物価が安く、とても暮らしやすい国である。 言葉は「ねー」とよく言う。「しかも」という言葉もよく使う。 魚は、青森からやって来る。弘前城下でも、黒石でも安い。大鯛という魚があった。ヒラメ、カレイ、ソイ(注4)、アブラメ(注5)、アワビは小さく、タコは水ダコ(注6)である。ニシン、塩引き鮭の類が多い。川マスもたくさんある。筋子は松前から来る。カセ(注7)は平内(注8)名物で、塩辛にして「ウニ」と呼んでいる。 石仏川という川で、 また「ワレ」というのは、江戸では「私」ということである。 ◇加護山に逗留 天保十四年(1843)、 ここに詰めておられるお役人は船山官平さまとおっしゃり、久保田(秋田)の片岡郡蔵さまから支配人の田口市十郎殿と申される方へ紹介状をいただいていたので、お訪ねした。 そうしているうちに、七日に小沢という所から大久保正太様とおっしゃる方がおいでになった。この人は久保田にいた時から知っていて、大町二丁目の山崎屋万蔵さんからの手紙を預かっていたので、早速お目にかかった。 大久保様は八日に出発の予定だったが、雨になったので逗留することになり、大久保様の役宅で話し込んでしまった。九日は天気になり、大久保様は銀の吹き分け場を見回りに出かけられた。九日の夜もお役宅へまいった。 私はその間、山内(吹き分け所)のあちこちを見物した。七日と八日は半里ばかりの小繋(注14)という所で、天神さまのお祭りがあり、大変にぎわうと聞いたのだが、雨なので参詣する人もなかった。船山様、大久保様のお供をして行くつもりだったが、また今度にしようということになってしまった。 (龍斎(注15)の門人で、才蝶という者から手紙が来た。院内(注16)から阿仁へ来たので、加護山まで来るとのことだ。私は会ったことのない人で、水戸の菓子屋の息子で蝶太郎という者が同行し、才蝶の女房と三人連れだという。この人たちは加護山に立ち寄った際に荷物などを預けておいたということだが、我らが出発するまでに来なかったので、会えなかった) ○時平(注17)にはあらで雨天に天神もつぶされたまふことのかなしさ 扇田という所から、お竹という女芸者が母親と二人で加護山に来ていた。これは半助という人の娘で、この鉱山となじみになり、たびたび来ているそうだ。 ○ふきわくる千々の黄金のかずかずは宝入り来る山のにぎわい 十日に、能代から大淵彦兵衛様、竹内庄右衛門様が四人連れでおいでなされた。前々から津軽まで同道する約束だったので、山内を見物がてらお立ち寄りくださったのだ。ところが、我らにもう一日逗留するようお役人の方々がおっしゃられるので、一日延期することになり、十一日に加護山を発った。 ◇矢立峠を越える 舟で一里半の小繋まで来たところで、少々忘れ物をしたのに気づき、小繋の問屋場から遣いを出したので遅くなってしまい、その夜は今泉という所まで行ったのが七つ(午後四時)なったので、問屋場の隣の茂三郎という人の家に泊まった。この家の主は風流な人で、俳諧などもなされるので、いろいろ話をし、短冊を望まれたので、 ○中々に珍しきまで遅桜都に知らぬ春の山里 と書いた。 十二日は大館の越前屋という宿に泊まった。ここの須藤半八殿とおっしゃる方をお訪ねしなければならないと思っていたものの、津軽へ急いでいたので、十三日は釈迦内(注18)という所から 峠のふもとに小さな川が流れていた。この同じ川を十二、三か所も歩いて渡り、それから峠にかかった。峠の上に、津軽のお殿様がお休みになる場所があり、最近お通りになられたので、その跡があるとお聞きした。そこから一町ほど行くと、秋田と津軽の境の一本杉の大木があり、ここを矢立峠(注21)という。 ○出羽越へししるしをここにみちのおくふとしくたちし杉の一本 ここから下りで、一里ほど行くと旅人改めの番所がある。そこからまた半里ばかり行くと「中の番所」というのがある。ここから南部へ越えて行く道があるからだ。 とは言っても、南部と津軽は行き来のない国(注22)なので、これは本道ではない。南部との境まで行けば、またまた水は向こうへ流れるそうだ。その流れをたどって行けば、南部の毛馬内(注23)という所に出る。そこから七時雨という所を経て盛岡へ出るという。ここは一日に七回も時雨にあうとかで、この地名がついたということで、避難所があるが、冬はまったく通行できない。 また、「中の番所」から一里ばかり西の山に入ると、矢立の湯という温泉があるそうだ。ここはことのほかの名湯で、疥癬、瘡毒によく効くそうで、三日かけて湯を巡るための小屋が少しある。しかし大変不自由な所で、米、味噌、その他を持参しなければ、必要な物は何もないと聞いた。 ここから、碇ヶ関(注24)の番所に出た。ここはみちのくでは珍しい番所で、旅人の出入りがことのほか難しい所である。 ○引き留める碇は国の掟ぞと行き交う人に示す関守 岸儀兵衛という宿に泊まった。すると、大館から二十四、五歳の女が一人、荷物を背負って来た。この女は、津軽黒石の城下郊外の尾上という所の藤八という人の娘で、名は「おはつ」というそうだ。七年以上前に秋田へ行き、手形六エ町(注25)の八代要太様という家に奉公し、このたび国元へ帰るという。能代までは送って来た人がいたのだが、旅費がかさむのでその人を帰したそうで、かわいそうに思い、女一人では碇ヶ関の御番所を通るのが難しいので、私の妻の召使ということにして一緒に行った。 尾上村に住んでいて、「おはつ」ということから、あの鏡山古郷ノ錦という狂言(注26)を思い出して、 ○村の名の尾ノ上の里をふるさとと見帰るおはつも錦なるらん 関所を出て別れた。 (関所から十町ばかり行くと、右へ入って小磯山 そこで、金、銀、銭の換算率だが、寛永二年(1625)に幕府が定めた公定換算率では、金一両=銀六十匁=銭四貫文(四千文)となっている。実際にはこの通りには流通せず、その時々のお互いの相場によって両替された。幕末には金が海外へ流出して高騰し、金一両=銭十貫文(一万文)にもなった。 では、語佛師匠の記録した津軽藩の換算率を見てみよう。 公定換算率で銀一匁は銭六十八文だから、「銀一匁は六十文」というのは、ほぼ近い金額だ。次の「一分は六文」というは「銀1分」のことで、「銀一匁」の10分の1。「一分」という通貨は通常は金貨の単位で、4分で1両、1分は4朱と定められていた。天保八年には「天保一分銀」が発行されていて、これは「金一分」に相当する銀貨であるが、銀貨だけの「1分」という単位があったことが、この記述でわかる。 「銭相場は金一分が銀二十八匁、二朱は十四匁」と書いているのは、公定換算率の「金1分=銀15匁」より金の価値が高いことを示している。金貨、銀貨、銭の交換比率はその時の相場によるので、あり得る数字だろう。 注2 米は当時、四斗が一俵で銀十八匁くらい=『江戸物価事典』(小野武雄、展望社)によると、「奥のしをり」の旅の天保14年3月の肥後米(西日本で最も多く流通していた)の値段は、1石で銀70匁である。1石は10斗なので、1俵4斗で計算すると、銀28匁になる。津軽の米は当時、江戸、大阪での評価があまり高くなかったことを考慮しても、語佛師匠が「安い」と感じたのはうなずける。 注3 酒は一升が銀二匁五分くらいで、極上の酒=銀1匁が60文なら、酒1升は銭では150文になる。『江戸物価事典』では、天保の頃(1830〜40)の江戸では1升で350〜400文との記録を紹介している。この酒は、灘や伏見で醸造され、江戸に下って来た「上酒」の値段だ。関東の地酒は「下らない酒」と言われてその半額以下だったとされているから、津軽の酒はそのくらいの値段だったのだが、語佛師匠が「極上の酒」と言っているのは、あるいは北前船で運ばれて来た関西の酒が流通していたのかもしれない。 注4 ソイ=フサカサゴ科メバル属のクロソイを、秋田、津軽では「ソイ」と呼ぶことが多い。やや深い岩礁地帯に生息する。煮つけがおいしい。秋田県の男鹿半島では、近縁種のキツネメバルを「ソイ」と呼んでいる。 注5 アブラメ=カサゴ目アイナメ科の魚、アイナメの地方名。ただし関西地方でも「アブラメ」と呼ぶので、こちらの名前で知っている人も多い。煮つけ、吸い物にされることが多い。現在は唐揚げにもされて美味。 注6 水ダコ=北海道から千島列島、アリューシャン列島、アラスカなど北の海に生息する、全長3bにもなる巨大なタコ。津軽や秋田でも漁獲される。マダコの仲間だが、水分の多い肉質なのでミズダコという。酢ダコにも加工されて流通している。 注7 カセ=ガゼとも言い、ウニの古称。漢字では「甲?」、または「石陰子」と書く。ここでは「塩辛にしたものをウニ」と言っているから、生ウニのことを「カセ」と言って区別したのかもしれない。 注8 平内=東津軽郡 注9 注10 浅瀬石川=岩木川の支流の支流。八甲田山系に端を発し、黒石市内を流れて平川に合流した後、すぐに岩木川に合流する。 注11 ヤマベ=ヤマメとも言い、サクラマスの陸封型(海に出ず、1年中川に生息するようになった種類)。語佛師匠の言う「マスの子」ではない。同じくサケの陸封型であるイワナに比べると、標高のやや低い水域に生息しているので、同じ河川では上流にイワナ、下流にヤマベとすみ分けている。非常に警戒心が強く、渓流釣りの腕が試される魚として人気がある。 注12 加護山=羽州街道の荷上場宿(能代市二ツ井町荷上場)から、米代川の支流の藤琴川を渡った対岸。「奥のしをり」9回目の「春には津軽へ向かう」の「注11」を参照。 注13 銅は能代湊から長崎へ向けて積み出す=加護山には、阿仁銅山の粗銅から銀を抽出する精錬所があったが、ここで純度を高めた粗銅は、幕府の御用銅になった。ただし、最終的には一部が長崎から輸出されることもあるが、まず、大阪の幕府銅会所に運ばれ、住友銅吹所(精錬所)でさらに純度を高めて幕府の「銅座」で銭に加工されるのが大半だった。 注14 小繋=能代市二ツ井町 注15 龍斎の門人=江戸時代の講談師に、真龍斎、一龍齋、双龍斎などの名がある。単に「龍斎」と号した例は見当たらないが、おそらく講談師の名前と思われる。 注16 院内=秋田県の南端、旧雄勝郡雄勝町(現湯沢市)院内にあった院内銀山のこと。戦国時代末期に発見され、語佛師匠の旅の頃には、銀山町の人口は1万5千人を数えたと言われるほど栄えた。明治以降の銀生産量は4百d、金1dに達し、明治14年(1881)には東北地方御巡幸の明治天皇が立ち寄られた。銀山としては日本最大と言ってよく、昭和29年(1954)の休山まで採掘が続けられた。 注17 時平=右大臣菅原道真の政敵、左大臣藤原時平のこと。藤原氏北家の嫡流だった時平は、 注18 釈迦内=弘前藩領に近い羽州街道の宿場。その次の白沢宿が秋田藩最北の宿場。現在は大館市釈迦内。 注19 陣場=秋田藩領で、最も津軽藩領に近い集落。現在は、JR奥羽本線陣馬駅がある。 注20 出羽と陸奥の境の峠=ここでは矢立峠のこと。現在の秋田県、山形県は出羽の国、青森県、岩手県、宮城県、福島県は陸奥の国だったので、出羽と陸奥の境と言ったのである。 注21 矢立峠=標高257b。坂上田村麻呂が杉の木に矢を射立て、奥羽の境を定めたという伝説が地名の由来とされており(ほかにも諸説がある)、現在も杉の天然林が広がる。旧道は、現在の国道7号やJR奥羽本線の通るルートより西側の急峻な道筋だったが、明治11年(1878)、この峠を越えた英国人女性、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』には、ヨーロッパアルプスや、アメリカのロッキー山脈のいくつかの峠道と比較して「いずれにもまさって樹木がすばらしい」と美林を賛美している。語佛師匠は、藩境に1本の杉の巨木があると記しているが、この木は初代「矢立の杉」が元禄年間(1688〜1702)に大風で倒れた後に植えられた2代目。しかし2代目の杉は太平洋戦争末期に伐採されてしまった。その跡に、3代目の杉が植樹されている。 明治26年7月に青森から、同27年2月に福島からと、南北両端から鉄道の敷設が始った奥羽本線は、同38年(1905)に秋田県の湯沢でつながって全通したが、同32年に鉄路が敷設された矢立峠は、蒸気機関車を3台連結(3重連)でなければ上れない全国有数の難所として知られていた。峠の下を通る矢立トンネル(全長3180b)ができたのは、昭和45年だった。 注22 南部と津軽は行き来のない国=弘前藩津軽氏は、戦国時代に、現在の岩手県北部から青森県全域を領した南部氏の家臣から独立した武将。元々は大浦氏を称していた為信が戦国大名として独立するまでの経緯には津軽、南部両氏の史料に食い違いが多すぎて「統一した史実」にならないので、主に津軽氏の史料に準じてなぞると、南部氏の津軽郡代を補佐して、岩木川左岸の大浦城(現弘前市、旧岩木町)にいた為信が、元亀2年(1571)から天正16年(1588)にかけて南部氏の諸城を攻略し、津軽地方を平定した。天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、為信は海路で京へ上り、秀吉に謁見して津軽領有の朱印状を受けた。これは、南部氏が所領を安堵されるより一歩早く、これを恨みに思った南部氏とは絶縁状態になった。 こうした事情から、津軽氏は南部領を通らずに南下できる陸路を求め、天正14年、当時は道のなかった矢立峠を切り開いて羽州街道を整備し、以後、江戸時代の参勤交代の道筋とした。 津軽氏を敵対視する盛岡藩南部氏の感情は尾を引き、江戸時代になって200年以上も過ぎた文政4年(1821)、盛岡藩士 注23 毛馬内=現在の秋田県鹿角市毛馬内。江戸時代は盛岡藩領で、八戸からの街道の終点だった。語佛師匠は前年の6月、毛馬内に滞在している(「奥のしをり」6「八戸から鹿角へ」を参照) 注24 碇ヶ関の番所=津軽藩への人の出入りを監視した番所。番所は複数あり、最も厳しかったのは語佛師匠も記している「中の番所」で、現在のJR奥羽本線津軽湯の沢駅の東、国道7号と、秋田県小坂町(江戸時代は盛岡藩領)に通じる国道282号の分岐点にあり、ここに昭和59年、観光施設でもある「碇ヶ関御関所」が復元された。 注25 手形六エ町=秋田市の手形地区は、JR秋田駅の東側から北へ広がる一帯。その中の手形休下町の一部の旧町名に「六句町」があるが、「六エ町」は見当たらない。原書を活字化する際、大工の「 注26 鏡山古郷ノ錦という狂言=正しくは「 初演以来、歌舞伎では「鏡山物」と呼ばれる仇討ちの演目が種々上演され、現在も演じられている。この歌舞伎は弥生(3月)狂言として定着したが、それは奥女中がこの時期に休みをもらって里帰りすることを許され、歌舞伎を観覧することが多く、彼女らの興味をそそるこの演目に人気があったからだという。 注27 国上寺=JR奥羽本線碇ヶ関駅の北東、旧碇ヶ関村(現平内市) |
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