弘前の城下に入る
◇弘前のあちこちを見物
 (四月)十四日、碇ヶ関から弘前(注1)へ向かった。
※スケッチ1=矢立峠に至る風景。上空から見た景色で、左奥に岩木山のような山が描かれている。
※スケッチ2=碇ヶ関の番所。手前に川と橋があり、「出入り厳重」と書いている。

 鯖石(注2)という所で昼食にしたが、ここに、倒れかかった垣根に卯の花が咲き乱れているのを見て
○雪と見て人の払わばいかにせんたわむばかりの垣の卯の花
 
昼の九つ半(午後1時)ごろ弘前に到着し、本町ほんちょう(注3)五丁目の三浦屋兵八という宿屋に泊まった。
 片谷という裕福な家があり、屋号は三国屋伝兵衛殿という方の隠居所で、そこに能代の大淵彦兵衛様、竹内庄右衛門様がご逗留とお聞きした。
 十五日、能代にいる時から知り合いの、三国屋の通い番頭で三国屋鎌吉という方が訪ねて来られて、ご馳走になり、この方にご一緒して三国屋の隠居所へ行った。
 能代の八郎兵衛から木村勝左衛門とおっしゃる方への紹介状を持参したのだが、この方は御町目付なので、お役柄面会できず、手紙だけを届けた。
 和徳町わとくまち(注4)の木村勇次郎様へも手紙を持参した。この方は元々、弘前藩の御家中であったが、今は町人になっておられる。いろは組の頭で、男伊達だということだ。
 十六日、大淵様、竹内様に同行し、三国屋鎌吉殿の案内で町を見物した。
笹盛町(注5)という所に東照大権現のお宮があった。薬王院(注6)といって天台宗のお寺で、ご先祖様の木像があり、御家老の北村監物様の木像もある。そのお社の入口の額に「みずのえの水流れけり久かたの天津日月ひづきのあらんかぎりは」と書いてあったので
○久かたの天津神世はいざしらず尊き国の守の御社
 
 それから住吉明神を参詣して
○住吉をここに移せし神垣は待つもひとしお翁さびけり

 今日、ここでは五穀を守りたまえる神様の祭礼で、たくさんの人々がお参りしてにぎやかだったので
○仏とも神とも人の祈らましたねつ実りを守りたまへば

 それから、親方町(注7)という所の、三栄堂句仏という俳人をお訪ねした。本名は竹谷慶輔といって印板師(注8)である。狂歌の方の名前は「外ヶ浜風」といって、浅草庵(注9)の門人である。たいへん風雅な人で、江戸にもしばらくおられたそうだ。近ごろは足の具合が悪くてまったく歩くことができない。同じ町内へも駕籠で行かれるということだ。その親父様は七十七歳で、当人は五十二歳、息子は二十八歳で、三組の夫婦がそろっているからと「三栄堂」というのだそうだ。津軽のお殿様もこれをめでて、お目見えを仰せつけられたという。俳諧、狂歌の門人が多数いて、毎月の集まりを開いている。行脚の句帳に三夫婦を松竹梅として祝し、あるいは梅松桜にたとえた発句、狂歌がたくさんある。私にも短冊を出されたので
○敷島のみちのおくまで訪ねばやその名も広き外ヶ浜風

 句帳へ
○盃の三つ重ねなる妹とせは実に末広き栄えなるらん

 それから心安くなり、毎日のように訪ねて遊んだ。狂歌俳諧の連中とも画賛などをして楽しんだ。今年は芭蕉翁百五十年忌に当たるので、句碑を建立されたそうだ。
 赤人(注10)の賛をされた歌に
 時も時所も所浦も浦詞(ことば)も詞人もまだ人      はま風

 毎日、ご城下を見物した。ご城下の家の数は、藩の御家中、町人の家を合わせて一万軒もある。商家はとても繁盛していて、町並みは碁盤の目のように刻まれ、松盛町まつもりまち(注11)の土手という所に、擬宝珠のついた橋があった。本町通りは十町もあり、茂盛町しげもりまち(注12)という所には芝居の常設舞台がある。座元は広居茂三郎という。元は広居喜太夫といっていたが、太夫という名にはばかりがあって、茂三郎と改名したそうだ。
 役者は、小佐川常世が病死し、その女房が女ながら舞台を勤めているという。そのほか、坂東又太郎などを頭として六、七人いる。
 十七日、またまた三国屋鎌吉殿が同道して、高岡(注13)という所へ行った。弘前から岩城川(注14)を越えて三里ばかりで、ご先代の為信公(注15)をはじめとして代々の御霊廟(注16)があり、たいへんに風景がよい。そこから一里余の百澤ひゃくざわ(注17)という所へ行った。ここは岩木山のふもとで、八月一日、お山へ登山する際の泊まり場所で、岩木山百澤寺ひゃくたくじ(注18)という寺がある。この寺は岩木山の別当で、寺領は四百石ある。本尊は阿弥陀如来だが、岩城ノ判官の息女、安寿姫(注19)を祀った山だということで、安寿姫の玉手箱の実物、弁慶の数珠などもある。この山の雪は七月まで消えないそうだ。
○香久山もかくや岩城のいただきに衣ほすかとみねのしら雪

 山の雪が七月の初めに消えるので、八月一日をご縁日とし、十日ごろまではご領内の村々から人が来て葷酒して、三十軒ばかりの村に泊まる人が三、四万人にもなるという。一年中の収入をひと月で得るという。また、七月になって雪が消えない年は不作になるということだ。
 この雪の消え方は、春から次第にいろいろな形になり(注20)、鍬、鋤、鎌などさまざまに変化するという。早苗を植える時分には、苗取りおっこと言って、苗を入れる笊の形になる。そうなると急いで田植えをするそうだ。
 九月の末から雪が降り積もるそうだ。山の峰が三つに分かれて見えるので
○旅人も伏して見つまた仰ぎ見つむつに名高き山のいただき


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注1 弘前=弘前市。弘前藩10万石(江戸初期は4万7千石。江戸後期に蝦夷地警備を命ぜられて7万石、さらに10万石になった。これは表高〈公称〉で、実際の米の収量は30万石以上あったという)津軽氏の城下町。桜の名所として名高い弘前城は慶長15年(1610)、2代藩主津軽信枚のぶひろが本格的な築城に着手し、わずか2年で完成させた。
津軽藩祖の為信は文禄3年(1594)、それまで居城としていた大浦(弘前城下から西の、岩木川を越えた旧岩木町賀田)から、弘前市街地から南東の平川に近い堀越(弘前市堀越)に根拠地を移したが、為信が関ケ原の合戦に出陣した留守に重臣の反乱が起きたり、たびたび平川の水害に見舞われたりしたことから、当時は二石についしと呼ばれていた弘前への移転を計画した。為信は城を囲む町の屋敷割(都市計画)を行い、堀越の住民に移住を促したが、慶長12年に京都で死去したため、その計画は後継者の信枚に受け継がれた。築城後、ここは高岡と呼ばれるようになり、弘前という地名は寛永5年(1628)8月から。
 弘前城は東西約600b、南北約1?の城地が、ほとんどそのまま残されていて、全国でも非常に貴重な城跡だ。しかも、三の丸追手門、3カ所の櫓、天守閣(築城時の天守は落雷で焼失し、その後、隅櫓を改造して再建)など、国の重要文化財に指定されている建築物が現存している。
 なお、毎春、多くの見物客でにぎわう桜の木は、明治になって植えられたもので、江戸時代の城内に桜の木はほとんどなかった。

注2 鯖石=大鰐町鯖石。弘前市に入る直前で、弘南鉄道大鰐線の鯖石駅がある。羽州街道の宿場は、大鰐の次が弘前で、江戸初期の羽州街道は鯖石から石川、堀越と現在のJR奥羽本線をなぞるような道筋だったが、貞享2年(1685)以降は、鯖石から大沢、小栗山と弘南鉄道に沿うように進んで、城下の土手町に入った。
 なお、羽州街道沿いの弘前市石川には、戦国時代末期、南部氏の津軽郡代、南部(石川)高信の居城があった。これを元亀2年(1571)5月4日、南部氏の家臣だった大浦(後の津軽)為信が奇襲して落城させ、津軽平定の第一歩とした歴史がある。この時の軍勢はわずか450騎、それに野武士など83人が加勢しただけと伝えられている。その3年後の8月に大光寺城(弘前市の東に隣接する平川市大光寺)を攻めたが、落とすことができなかった。そこで為信は、人々が最も油断していると考えた翌年正月の元旦、奇襲して大光寺城を落とした。以後、為信に従う者が急増し、次々に南部方の諸城を落城させていった。
 また、堀越は南北朝の戦乱期以来、津軽平野の東西を分ける紛争の地で、たびたび城が築かれた。弘前に移る前の津軽氏がここを拠点としたことは、「注1」に述べたが、現在、熊野宮のある場所が堀越城跡である。

注3 本町=弘前城の南に位置し、城下町整備の初期、商家が集められた。

注4 和徳町=弘前城の東の外堀である土淵川を越えた所にある。城下町は当初、土淵川までだったが、17世紀後半から、次第に東側へ発展して行った。なお、この町名は戦国時代末期、南部氏配下の武将、小山内おさない讃岐守の居城、和徳わっとく城に由来する。津軽為信は石川城を奇襲した勢いで和徳城を攻撃、落城させた。城があったのはし、現在の和徳稲荷神社の場所とされていて、城主讃岐守の首はここに埋められたという。

注5 笹盛町=城の東側、土淵川の手前。現在の表記は笹森町。

注6 東照大権現のお宮、薬王院=東照宮は、2代藩主津軽信牧が江戸・上野の寛永寺(天台宗)の天海僧正を通じ幕府の許可を得て勧請した(本殿は国の重要文化財)。隣接する薬王院は、東照宮に付属する別当寺として建てられ、当初は東照院と称していたが、後に薬王院と改められた。
語佛師匠の旅より後のことだが、明治元年(1868)11月、蝦夷地へ侵攻した榎本武揚軍に追われた松前藩主、松前徳広はかろうじて弘前へ逃れ、薬王院に居住したが、肺結核のためここで25年の生涯を閉じた。さらに明治3年、神仏分離で廃寺となったが、明治10年に再建されて現在に至っている。

注7 親方町=城の南東の角近く。すぐ南に鍛冶町、その西に元大工町と、かつて職人を集めた名残の町名が並んでいる。

注8 印板師=印板は書籍を印刷する版木のこと。それを彫るのが印板師。

注9 浅草庵=狂歌師。初代は浅草庵市人あさくさあん・いちひとといい、江戸・浅草田原町で質屋を営んでいた。江戸狂歌は天明期(1781〜1789)に、西方赤良よものあから(戯作名は太田蜀山人)、手柄岡持てがらの・おかもち(戯作名は朋誠堂喜三二〈ほうせいどう・きさんじ〉。本名は平沢常富ひらさわ・つねまさといい、秋田藩士)などが現れ、最高潮に達した。浅草庵市人も、西方赤良と親交があった。次の寛政期(1789〜1801)になると、松平定信の寛政の改革の影響もあって軽妙洒脱な天明調の狂歌は衰退したが、浅草庵は天明調の滑稽な狂歌を作り続けたという。
 ただし、浅草庵市人は文政3年(1820)に66歳で亡くなり、浅草庵守舎あさくさあん・もりやが2代目を継いだ。語佛師匠が弘前を訪れるより20年以上前のことで、狂歌で「外ヶ浜風」を名乗る三栄堂句仏が52歳というと、江戸にいたのは若い頃だろうが、師事したのが浅草庵の初代か、2代目かは、はっきりしない。

注10 赤人=「田子の浦ゆうちでて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」の歌で知られる万葉の歌人、山部赤人。「賛」は通常「画賛」のことだから、おそらく、この歌を題材にした絵があり、それに「はま風」が狂歌を添えたのだろう。しかし、そういう説明がなく、なぜ芭蕉翁百五十年忌に当たって建立した句碑の話に続いて、突然この画賛が出て来るのか、よくわからない。

注11 松盛町=現在の表記は松森町。城の南東。親方町から南東に延びるまっすぐな道があり、土手町、品川町、松森町と続く。

注12 茂盛町=現在の表記は茂森町。城の南で、かつてあった茂森山が町名の由来。元和元年(1615)、お城より高かったこの山は削られ、その西に広大な寺町(現在の西茂森1、2丁目で、藩主の菩提寺である長勝寺を中心に曹洞宗の寺院が配置されていて、長勝寺構えと呼ばれている)が建設された。
語佛師匠は、ここに芝居の常設小屋があると書いているが、17世紀中期の弘前の古地図では「なぜか煙草屋は茂森町に集中していた」(新編弘前市史・通史編2)と記載されているそうで、城下町の設立当初から同じ職業を集めた町人の町だったことがわかる。語佛師匠のいう「芝居小屋」は、現在の弘前市森町に近い茂森町の北東の角地にあったようだ。ここで文政12年(1829)、広居寅吉という人が小屋の修復のために富くじを売り出した記録がある。ただし、この人が語佛師匠の言う「座元は広居茂三郎」と同一人物かどうかはわからない。芝居小屋は後に「茂森座」となった。

注13 高岡=弘前城から西へ向かい、岩木山のふもとの高照神社付近が高岡。弘前藩の4代藩主、津軽信政は吉川惟足きっかわ・これたる(幕府神道方)に師事し、宝永7年(1710)、弘前城内で没したが、この地で神葬によって埋葬するよう遺言した。その2年後、弘前藩は信政を祀る神社を建て、吉川惟足から「高岡霊社」という称号が贈られた。藩士は信政を「高岡様」と呼んで崇拝したという。神社は明治時代になって現在の高照神社と改称したが、拝殿は吉川神道による神社建築の全国唯一の遺構として知られている。

注14 岩城川=現在は岩木川と表記するが、江戸時代は岩城川という表記もあった。岩木山も同様に岩城山と書いた記録がある。岩木川は秋田県境の白神山地に端を発し、弘前城の西を流れて北上し、十三湖に至る延長2540?の大河。十三湖は細い開口部で日本海につながっていて、津軽平野から集められた年貢米は岩木川の水運で十三湖に運ばれ、さらに鰺ケ沢に運んで回船に積み替え、大阪(一部は江戸)まで輸送された。津軽藩の物資輸送の大動脈であり、弘前城の西の外堀でもあった。

注15 為信公=弘前藩祖、津軽為信のこと。為信の出自については、大浦4代城主為則の弟の子という説と、南部氏の一族という説があるが、いずれにせよ大浦為則の養子となり、5代目を継いだことは間違いない。まさに戦国の下剋上を絵に描いたような武将だが、その一方で、山形の最上義光もがみ・よしあきを通じて、織田信長、豊臣秀吉の動向を知ることに努めた戦略家でもあった。天正18年(1590)2月、最上義光から秀吉の小田原攻めを聞いた為信は、家臣18人とともに海路で京に上り、すでに出陣していた秀吉のあとを追って東海道を下って沼津で秀吉に謁見することに成功した。この時、為信は京の都で高位の公家、近衛家に接近してその庶流と認められ、近衛家の家紋に類似した杏葉牡丹きょうようぼたんの紋所の使用を許された上で、秀吉に対面したという。このあたりの抜け目のなさからは、為信が単なる勇猛の士でなかったことがわかる。関ケ原の合戦で徳川方についたのも、最上義光の助言があったと推測される。
 為信は江戸時代になっても、毎年のように京へ上洛した。そして慶長12年(1607)12月、京都山科の刀鍛冶、来国光らい・くにみつ宅で病死した。

注16 御霊廟=高岡に藩祖為信以来の津軽氏の霊廟があると語佛師匠は記述しているが、何かの間違いではなかろうか。京で客死した為信は、遺骨となって弘前へ帰ったが、為信の霊廟(国の重要文化財)は、城から西の岩木川を越えてすぐの弘前市藤代の革秀寺にある。2代藩主、津軽信枚が父の位牌所として創立したと言われている(同寺の起源については異説もある)。また、高岡には4代藩主信政を祀る高岡霊社(現在の高照神社)がある。それ以外の藩主の霊廟や墓は、大浦氏以来の菩提寺である曹洞宗長勝寺(弘前市西茂森町1、2丁目)と、3代藩主津軽信義の菩提を弔うために創建された天台宗報恩寺(弘前市新寺町)にあった。そして報恩寺の墓は昭和29年、隣接する弘前高校の敷地拡張のため、すべて長勝寺に移された。つまり現在、初代為信と、4代信政以外の藩主の墓は長勝寺に集約されているし、「奥のしをり」の時代以前にも、高岡の地に津軽氏歴代の霊廟があった記録は見つからない。あるいは、城下から高岡への道筋に革秀寺、高岡霊社があるのを知った語佛師匠が早とちりしたのかもしれない。

注17 百澤=岩木山(標高1625b)の上り口にある集落。古来、岩木山そのものがご神体であり、頂上に奥宮本宮があり、その里宮として百澤に下居宮(おりいのみや)があるが、下居宮は岩木山の北麓にあったのを寛治5年(1091)、神託により百の沢を越えて南麓の現在地に移転したという。
 岩木山への登山は通常禁止されていたが、8月1日から15日までは許されたので、津軽平野の村々では村落ごとにまとまり、競って頂上を目指した。それで百澤の家々が宿泊所となったのだが、明治中期の記録によると、仮眠した登山者は午前2時にはたいまつをかざして上り始め、山頂でご来光を拝し、今年の豊作を祈願した。下山して宿舎に戻るのが正午ごろ。食事をして眠り、夕刻には目覚めて酒宴となり、また眠って、翌日にそれぞれの村へ帰った。語佛師匠は、「十日ごろまでは」「三十軒ばかりの村に泊まる人が三、四万人にもなる」と書いているが、これほどの人数になると百澤だけでは宿舎が足りず、高照神社のある高岡あたりまで宿を求める人々でごった返したようだ。

注18 岩木山百澤寺=下居宮の別当が真言宗百澤寺。天正17年(1589)、岩木山が噴火して神社も寺も焼失したが、津軽為信が下居宮、百澤寺の大堂をはじめ諸堂宇を再建した。しかし明治政府の神仏分離によって、明治3年(1870)から6年にかけて、寺の本尊である阿弥陀如来像や、山門にあった五百羅漢像、大堂の棟札などは長勝寺(弘前市西茂森町)に移され、百澤寺は廃寺となった。ただし、明治6年に岩木山神社と名称を変えたものの、下居宮は本殿、百澤寺大堂は拝殿、百澤寺本坊は社務所、山門は楼門として、語佛師匠が目にしたと思われる建築物がそのまま現在まで受け継がれている。

注19 安寿姫=岩木山は、安寿姫を祀る山とされている。森鴎外の小説『山椒大夫』に登場する安寿と厨子王の、姉の方の安寿のことだ。小説では……無実の罪で九州に流された父親、岩城判官正氏を、姉弟が母と共に訪ねようとして津軽を旅立つが、途中の越後で人買いにだまされて母親は佐渡へ、姉弟は丹後(現在の京都府)の由良の山椒大夫に売られてしまう。しかし厨子王は脱出し、後に丹後の国司となって、丹後での人身売買を禁じ、佐渡で母親と再会する……というのが粗筋だ。もともとは、芸人に語り継がれた「説教節」の中にある物語で、そちらでは国司となった厨子王が、山椒大夫と息子の三郎、それに越後の人買い山岡太夫を殺してかたきを討つ話になっている。津軽では古くから知られていた物語であり、2代藩主津軽信枚が作らせ安寿と厨子王の木像が今も長勝寺に安置されている。ただし、安寿姫は伝説であり、語佛師匠が見たという安寿姫の玉手箱が何に由来するのかは不明。また、なぜここに弁慶の数珠が登場するのかもわからない。
 ところで江戸時代、津軽では丹後の船が来ると天気が崩れると言って忌み嫌った。安寿をいびり殺したのが丹後の山椒大夫だからだ。『岩木山信仰史』(小館衷三著、北方新社)には、津軽で天候不順が続いた時に、領内に丹後の人間が入り込んでいないか役人が調べたという記録が紹介されている。
 ついでだが、岩木山は女性を祀る山だったこともあって、江戸時代は女人禁制だった。女性が初めて山頂まで登ったのは明治6年である。

注20 雪の消え方は、春から次第にいろいろな形になり=高い山の残雪の形を見て農作業を始めるのは、全国各地に例がある。暦は農事のおおよその目安にはなるが、残雪の形を見るのは体験的な農民の知恵である。津軽平野では、早苗を入れるザルの形になった時が田植えの時期だったのだ。

注21 山の峰が三つに分かれて見える=岩木山の山頂は、3つの峰に分かれている。天台密教が津軽に伝わったと言われる11世紀以降、この3つの峰を熊野三山に見立てて、岩木山そのものを御神体とする「岩木山三所大権現」信仰が広まった。熊野三山というのは、熊野坐くまのにます神社、熊野速玉くまのはやたま神社、熊野那智神社のことで、本地垂迹説ほんじすいじゃくせつ(本地である仏や菩薩が、日本の神の姿となって現れるとする神仏同体の思想)に従って、それぞれの神社に本地である仏様と、その現われである神が祀られている。岩木山でもこれをほぼそのまま踏襲し、里宮である下居宮・百澤寺(現在の岩木山神社)の大堂には、本地である阿弥陀如来、薬師如来、十一面観音を安置していた。これらの御本尊は明治の神仏分離によって長勝寺に移されたが、語佛師匠は百澤寺を訪れているので、たぶん扉越しではあってもご本尊を拝んだと思われる。
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