米内沢から大滝へ
◇大滝で湯治
 七月八日、米内沢から小繋へ行った。その道々に継立場(注1)が多くて、半里か十五、六町で受け継ぎがあるのでとても手間取った。それで七つ(午後四時)ごろ、ようやく小繋に着き、駅場の向かいの肝煎り殿の家に泊まった。
 九日には加護山に立ち寄って能代まで行こうと思っていたのだが、あまりにも残暑が厳しく、しのぎがたい暑さだったので、扇田から大滝へ行って湯治(注2)した方が良いと思った。
 今泉茂三郎殿の所に立ち寄り、綴子つづれこ(注3)まで行ったところで、駅場の向かいの本陣の高橋八郎兵衛殿方で昼食をとっていたら、駅場の隣の高橋善十郎とおっしゃる方……この人は大館でお近づきになり、狂歌などもいたされ、戯作のまねなどもされる面白い人……本陣の別家の方で、本陣に来られて「あまりに暑さが厳しいから、今夜一晩泊まって、明朝早くに出たらいいだろう」とおっしゃられ、八郎兵衛殿、善十郎殿に引き留められたので、この日は本陣に一泊した。
○立ち寄らば大木のもとよ夏の旅
 
 その夜は座敷で一席うかがい、翌朝に出発しようと思っていたら、「もう一晩」と引き留められ、十一日はまたまた大雨で出発できず、善十郎殿の家に泊まった。
 十二日に綴子を出立した。善十郎殿の狂歌名は夢楽というのだそうで、いろいろと戯作の本なども見せられたので
○綴りにはあらで言葉の綾錦巻き返したる文ぞめだたき

 ここから五里六町は継場がなく、昨日の夕立で大水となった米代川をようやく渡った。昼過ぎに、扇田半兵衛殿を訪ねた。この人は、加護山で近付きになった「お竹」という芸者の親父様で、とても世話好きだ。昔は料理屋をやっていて、芸人が数多く出入りした家である。
 鳥渡(場所不明)に立ち寄ってから大滝まで行くつもりでいたのだが、一晩引き留められ御馳走になった。その夜、松右衛門という人が訪ねて来た。この人には、去年、南部から来た際、毛馬内から紹介状を持って訪ねたのだが、能代へ行って留守のため会えなかったが、今回お会いすることができた。
 十三日は、松右衛門殿方にあいさつに回ってから、いろいろ買い物などして大滝へ行った。宿は善左衛門殿とおっしゃる方に落ち着いた。大滝は家の数が三十軒ほどあるだろうか。どの家にも内湯があって、熱湯もあればぬるい湯もある。川端に滝があって、滝は九本あるそうだ。

◇三哲山の由来
 ここから半里ほどで十二所(注4)に出る。ここは南部領との境で、御番所がある。領主は茂木筑後様とおっしゃり、五千石の持ち高で、佐竹様のご一族の家柄である。
 大滝から見ると、十二所の向こうに三哲山(注5)という山がある。ここには昔、南部から来た三哲という医者がいた。武芸、学問に秀で、十二所の領主(注6)、家中、町の人まで教えを受けたが、領主をはじめ誰からも礼物がなかったのを怒り、領主の年貢米が蔵に運ばれる途中を襲って奪った。それで、領主から捕り手を差し向けられたが、手ごわくて捕らえられなかった。その後、三哲が大滝へ湯治に行った時、湯に入っているのを殺そうと、槍で腿を突き刺したが、三哲が刺客を捕まえて投げつけたので、皆逃げ去った。そこに三哲の弟子六人が残り、三哲を介抱したのに対し、三哲が「我を向こうの山に連れて行け」というので、弟子たちが三哲の手を引いてようやく連れて行った。その途中で、これを見て笑った者がいて、その子孫は今になって身障者になっている者もいるという。さて、それから三哲は、山に登って穴を掘らせ、その中に入って切腹して果て、そのままそこに埋められた。
 その年、十二所に一人の老人が「どんな病気にも効能がある」という薬を売りに来た。みんながそれを買って、手箱や押し入れなどへ入れておいたところ、そこから火が出て、武家の屋敷も、町家も残らず焼き払い、翌年、ようやく建て替えができたのだが、またまた火が出て残らず焼けてしまった。さらにその翌年、今度は三哲の死んだ山から火玉が出て武家の屋敷へ飛び、そこからまた町家が残らず焼けた。しかし三度とも、三哲を介抱した六人の家は大火の中でとびとびに焼け残った。
 領主の茂木氏も、これはすべて三哲の祟りだろうと察し、三哲を神として三哲山大明神と祀り上げた。それからなんの災いもなくなった。
 毎年六月十八日がお祭りで、参詣する人が多いという。これは、百七、八十年前のことであるという。
 (三哲という人は、南部の九戸の左近監殿の身内で、千葉上総之助といって、九戸の乱(注7)の落人で、十二所へ来てから三哲と名乗り、医者となったそうだ)

 また、十二所から半里、三哲山から南の方に別所村(注8)という村がある。大変な山の中だが、家の数は五、六十軒もあるだろうか。この村人も九戸の乱の落人で、周辺とは村の言葉も別で、農業、山仕事に出る時の弁当を入れる袋を「武者袋」というそうだ。そのほか、いろいろ別な言葉があるという。これはすべて九戸の落人の証拠で、何事も周辺の村とは別なので「別所村」というのだ。
 
◇大滝、扇田、
 大滝に来てからは、毎日温泉に入っていた。この時節は一向に湯治客もない。阿仁の荒瀬村(注9)から来た夫婦と子供一人の三人連れが隣座敷にいて、仲良くなった。五城目から来た七人連れも表座敷にいた。しかし、どの人も話し相手にはならなかった。十二所から武家の内町の皆さんが日帰りで入浴に来て、この皆さんは私を訪ねて来て、いろいろ話などをした。
 そうしていたところ、十七日に、大館の原田三四郎殿が同道して、藩の御出役の黒沢慶助殿とおっしゃる方が、付き人二人とおいでなされた。奥座敷にご逗留され、さっそく領内の見回りに出られたが、毎日私のところへも来られてご馳走になり、落語も演じた。
 三四郎殿は、大館で八月一日の祭礼があって、今回は津軽から芝居が来て興行するので、大滝には五、六日逗留して二十八日に大館へ帰られた。
 その夕方、扇田半兵衛殿のところからお酌の子が三人来て、奥座敷で飲み明かした。
 二十九日には、黒沢様とお付きの人ら三人とも扇田へおいでになられた。途中まで見送り、半兵衛殿のところから来たお酌の子も皆帰った。
○天保もなおるばかりぞ正宗の身を打たせたる滝の湯かげん
○ここらから秋や立つらん滝のもと

 夜中に川端へ出て涼んでいたら、所々に火を焚いている人がいるようなので、何をしているのかと行ってみると、灯しの下で夜釣りをしていたので
○妻乞わぬなれ(汝)も灯しによる魚のしかとも見へて引く釣りの糸

 八月四日、大滝を出て扇田半兵衛殿のところへ行った。さっそくその夜、目明しの清水儀右衛門殿の世話で壽仙寺という寺で肝煎りの山脇平右衛門殿、そのほか七、八人で楊弓ようきゅう(注10)の会があったのに引き合わせてもらい、儀右衛門殿の弟の勘助殿の家で五日間の寄席興行をすることになった。もっとも、儀右衛門殿は芝居の興行免許を願い出るため、五日の早朝に出発して久保田へお出かけになった。それで、寄席の世話人は佐助殿、平助殿、半兵衛殿の息子の又五郎殿の三人が務めてくださった。寄席は大入りで、一晩延長した。
 「あと二、三夜は寄席を続けてほしい」と言われたが、もう朝晩は少し秋風も立ち始めていて、加護山から太良へ行かなければならなかった。
 半兵衛殿の娘の「お竹さん」が母親と一緒にやはり加護山まで行くというので、同道することにした。とはいっても、まだ日中は残暑が厳しいので、舟を待つことにした。
 八日、半兵衛殿の妻女が大館へ芝居見物にいくのに、我らも一緒にと誘われたが、寄席興行中なので、私の家内だけを大館へやった。役者は津軽から来ているということだ。
 この節、毎日夕立が降り続いて、三日ごろから興行場所が雨天でなんとか桟敷づくりはしたが、やっと七日から興行初日となった。
 今年はことのほか農作物のできが良いので、興行免許をお願いして芝居もやっているとのことだ。関東地方はどんなものであろうか。秋田、津軽などは景気がよろしく、芸人なども大いに繁盛している。
 南部領では八月十五日の八幡町八幡宮(注11)の御祭礼がことのほかにぎやかで、寄席なども繁盛したが、この頃はご公儀から八戸に外国船を防ぐご陣屋を設けるよう仰せつけられ、八戸の町方、近辺の村々ともたびたびの御用金を命じられて騒がしく、その上、旅人の逗留は難しく、芝居などはできないという。評判がよくないので、扇田から盛岡まで三十二、三里あって、三日の道のりだが、行ってみるのは見合わせた。
 九日は二百十日ではあるが、とても天気が良く、半兵衛殿と一緒に隣家に鶏料理に呼ばれ、終日、ご馳走になっていたら、日暮れになってその家の主の姿が見えなくなった。空になった徳利だけが残っていたので
○あるじなき庵の主や空徳利……と言ったら、半兵衛殿が
 二百十日の荒れに恐れて……この後の第三句をと言われたので
○御けん見に米もぬかずく豊の秋

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注1 継立場=馬や荷物運びの人を換える決まりになっている場所。宿場が多い。馬子にはそれぞれ縄張りがあって、継立場を無視して継続することはできなかった。

注2 扇田から大滝へ行って湯治=大館から米代川の右岸を東へ向かい、扇田橋を左岸へ渡った所が扇田で、旧比内町(現大館市)の中心地。ここから米代川左岸を東へ進むと大滝温泉がある。大同2年(807)の八幡平の噴火の際に湯がわき出したと伝えられる古くからの温泉で、江戸後期の紀行家、菅江真澄は半年近くも滞在して、地誌『すすきの出湯』を書いた。秋田藩最後の藩主、佐竹義尭よしたかも湯治に来て1カ月ほどもいた記録がある。語佛師匠は、盛岡藩領だった鹿角から秋田藩領の大館へ向かう途中でも、大滝に寄っている。

注3 綴子=北秋田市綴子(旧鷹巣町)。津軽氏の参勤交代の際の本陣が置かれた、羽州街道でも大きな宿場だった。国道7号の綴子交差点から北へ5百メートルにある八幡宮綴子神社は、東北地方最古の八幡神社とされている。毎年7月14、15日に行われる例祭では、両方の打面の直径が3メートルを超え、長さ4メートル、片側の上には4人ずつ、下に2人ずつ、計12人の鼓手が打ち鳴らす大太鼓が登場する。「世界一」と、ギネスブックにも認定されている大太鼓で、国道7号沿いの「道の駅たかのす」に隣接する「大太鼓の館」には、これが常時展示されている。大太鼓の行事は、雨ごいと五穀豊穣を祈願する神事として鎌倉時代に始まったと言われていて、江戸時代にも行われていたはずだが、「奥のしをり」で触れていないのは、語佛師匠にこの祭礼のすばらしさを伝える人がいなかったのだろう。

注4 十二所=大館市十二所。盛岡藩領(現在の秋田県鹿角市)に接する鹿角街道の宿場。盛岡藩に対する秋田藩の境番所があった。江戸時代、米代川の舟運はここまでさかのぼっていた。

注5 三哲山=十二所から間近に見える、こんもりした山。正式名は蝦夷ヶ森というのだが、三哲の故事にちなんで一般には「三哲山」という。ただし山を「やま」ではなく「さん」、つまり「さんてつさん」と愛称のように呼んでいる。
三哲は元々千葉秀胤(別名下斗米常政)という武士で、寛文6年(1666)に十二所へ来て医者を開業し、学問の師ともなった。語佛師匠は、三哲がなぜ領主の年貢米を奪ったのか理由を書いていないが、それは凶作の年で、奪った米を貧しい農民に施すためだったという。史実としては、三哲は大滝温泉で入浴中に捕らえられ、死罪になった。斬られる直前、三哲は恨みの言葉を残し、間もなく十二所で大火が起きたことから、三哲山の中腹に、その霊魂を慰めるため、三哲から多くの恩恵を受けた住民によって三哲を祭神とする三哲神社が建てられた。
 この三哲山までが秋田藩領で、戊辰戦争の戦跡でもある。奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩に対し、同盟の一翼をになった盛岡藩は慶応4年(1868)8月9日、1600人の軍を差し向けて来た。十二所の城代、茂木筑後は三哲山に陣を敷いたが、守備兵わずか3百人では支えきれず、戸数4百戸だった十二所の市街地も焼き尽くされた。

注6 十二所の領主=十二所には戦国時代、浅利氏の家臣の居館があった。佐竹氏が秋田に入ってからは城代(所預かり)が配され、初めは赤坂氏、次に塩谷しおのや氏、梅津氏と交代し、天和3年(1683)からは茂木氏(代々筑「筑後」を襲名)が明治維新まで続いた。三哲の故事は、城代が塩屋民部の時のことである。

注7 九戸の乱=天正19年(1591)、現在の岩手県二戸市福岡にあった九戸城の九戸政実くのへまさざね、南部宗家の26代南部信直に対して起こした反乱。九戸氏も南部氏の一族で、本来は南部氏の相続をめぐる争いだった。しかしその前年、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣した南部信直に対して、秀吉が本領安堵の朱印状を渡したことから、信直の臣下とされることに腹を立てた九戸政実が反旗を翻したのである。が、これは豊臣政権への謀反ということでもあり、秀吉は豊臣秀次を総大将とする10万の軍勢を派遣した。
 九戸の乱の前に、奥羽各地で秀吉の天下統一に従わない多くの戦国武将が一揆を起こして討伐され(奥羽仕置)、その残党も九戸政実を頼って九戸城に立てこもった。籠城した人は、地元の農民と家族も合わせて5千人と言われる。大軍を迎え撃って九戸勢は頑強に抵抗したが、「降伏すれば許す」という策略にはまり、九戸政実ら幹部は捕縛されて斬首、城に残った人々は二の丸に集められて火をかけられ、全員が焼け死んだ。
 三哲は、九戸から大館の十二所に来たと言われているが、九戸城にいた武士はことごとく死んでいる。九戸の乱では、現在の岩手県北部から青森県東部の武将、地侍も多数が九戸政実に同調しており、当時は南部領だった鹿角地方(現在の秋田県鹿角市)へつながる鹿角街道沿いの武将も反乱に加わっていたから、三哲は、九戸城には入らないで戦った勢力の一員だったのかもしれない。ただ、三哲が十二所に来たのは寛文6年(1666)とされていて(『秋田県の歴史散歩』山川出版社)、九戸の乱からは75年も後のことになる。九戸の乱の落ち武者とすればよほどの高齢になっていたはずで、この話の真偽には疑問が残る。

注8 別所村=三哲山の西で米代川に合流する別所川を、4キロほどさかのぼった右岸にある集落。村の由来は「奥のしをり」のようなことなのだろう。

注9 阿仁の荒瀬村=秋田内陸縦貫鉄道の、阿仁合駅からひとつ南(仙北市方向)に荒瀬駅がある。

注10 楊弓=遊戯用の小型の弓。もともとは楊柳(カワヤナギ)で作ったから名づけられたという。江戸時代から明治初めにかけて、神社の境内や盛り場に楊弓で遊ぶ「矢場」が設けられ、庶民の遊びとして流行した。

注11 八幡町八幡宮=盛岡市八幡町の盛岡八幡宮のこと。もともとは盛岡城内にあった盛岡藩の総鎮守だったが、寛文11年(1671)、現在地に「御旅所」を造り、その後、領民の参拝も許されてから、毎年8月(現在は新暦の9月)に行われる祭には、城下ばかりでなく近隣の人々も集まる大祭となった。城下の各町内からは山車だしが繰り出し、境内で流鏑馬やぶさめの神事が行われる。「奥のしをり」5、「盛岡に1カ月」の「注18」と「注20」を参照。
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