仙台城下
◇天保十二年の暮れまで
 天保十二年(1841)十月二十八日、仙台城下に到着した。長町(注1)という所まで三笑亭五楽が迎えに出てくれて、大町五丁目の目明し(注2)、鈴木忠吉殿方へ参り、それから糠蔵町の峰岸善左衛門様の長屋にある五楽の家に落ち着いた。
 二十九日早朝、忠吉殿の身内の鈴木屋亀吉という十人組の方、同じく、亀吉殿の弟で八百善源六殿の二人が参られて相談し、十一月三日から新伝馬町の後藤屋という家で二十日間の興行を始めることを決めた。願主(注3)は信濃屋善左衛門である。講談、落語、そのほかの諸芸は三願主といって、小竹屋長兵衛、信濃屋善左衛門、真壁屋新蔵の三人が務めるということだ。
 芝居(の願主)は三太夫という人がいるが、その人の希望で「歌舞伎はできないから、操り人形芝居をやりたい」という。江戸から歌舞伎役者が来ても、舞台には五人より多くは出られず(注5)、大詰めになって大勢が出るようになると、セリフのない役者は後ろ向きになるほかはない。
 浄瑠璃(注5)、豊後節(注6)、新内節(注7)、説教節(注8)などは三味線弾きが必要だが、検校様(注9)の門人でなければ興行ができないという事情がある。我らより先に、女浄瑠璃が津賀多国分町という所で興行していたし、新内節の吾妻路富士太夫は肴町で興行していた。説教節と浄瑠璃の薩摩千賀太夫、同じく伊久太夫は南町で興行していた。そのほか八人芸(注10)、奥州浄瑠璃がそれぞれ興行していた。
 五丁目町の後藤屋千代吉殿という料理茶屋は、昔から知っている人だったので訪問した。南町の元目明しの安太郎殿の娘で、「おいな」という人もこの料理茶屋にいて、知った人だったのであいさつした。そのほか、鳴物師(注11)の雲次殿、七兵衛殿、木町の吉岡という料理茶屋、いずれも昔からの知り合いだったので訪問した。
 さて、十一月三日から五日まで興行したところ、お屋形様(注12)の法事があって鳴物を止められ、二晩興行を休んだ。また、大雪で一晩休み、二十五日に千秋楽となった。
 そのあと、二十七日から二日町二番町という所で十五日間の興行を催し、十二月十二日に千秋楽となった。
 そしてまた、石町という所で十日間の興行をして二十二日に千秋楽となり、めでたく年を越した。
(仙台まで、扇屋一蝶という弟子夫婦、馬生門人の馬好というのを連れて来ていたが、十二月十四日、和歌名屋扇蝶という弟子が訪ねて来た。元は都々逸坊の門人で歌山といい、尾張名古屋の人であるが、我らの弟子となっていた。越後から松前へ渡り、南部領へ上ってあちこち興行して石巻まで来たところで、私が仙台へ下って来たことを聞き、訪ねて来たのだという)

◇天保十三年の年明け 「花咲連」の会合
 正月二日、八百善源六方で噺始めをして、それから毎日あちこちのお座敷を務めた。
 二月二日からは、新伝馬町の米屋という所で、亀吉殿ならびに黒玉圓直吉殿と申す人の世話で、十五日間の座敷興行をした。
 十二日には、八百善源六殿の家で、芝居の所作を面白おかしく見せる茶番狂言の催しがあった。この会には、国分町の伊勢屋半右衛門殿という書店の主、掌善坊という人、一朝という金持ちの医者(この人の本名は奥村玄朝殿という)、そのほか文叟という俳人、樵堂治調忠吉殿は(俳号)五調、(鈴木屋)亀吉殿は(俳号を)萬亀庵と申された。(八百善)源六殿は古久升と申して、これも俳諧をよくいたされる。芝居も好きで少々狂言なぞもおできになる面白い人物である。この時からあちこちで、芝居に合わせた料理を出す「景物会」を催し、ここに名を上げた人々の集まりを「花咲連」と名付けた。これにより、皆々心やすくなって、中でも掌善坊殿は私をことのほかひいきにしてくれるようになった。
 掌善坊殿の家は、庭に藤棚のある橋をこしらえたことから、「藤橋」と名付けた。しばしば藤橋へまいり、連中(花咲連)が会合し、画賛歌(注13)ということを始めて楽しんだ。後には、釈迦堂梅惣という料理屋、そのほか木町吉岡という所で会合して遊んだ。
 料理茶屋は、木町の吉岡、肴町の奥田、五丁目の後藤、新伝馬町の八百善、吉野、肴町の大黒屋、そのほか数多くあった。
(一蝶というのは、元は林屋一蔵の弟子で、武州川越の者だが、上方へ行って、越前からお安という女を女房にして連れ歩き、会津から同道して仙台へ来たのだが、女房が身重になり、五楽の長屋で正月に出産した。生まれたのは男の子で、我らが奥州にいて生まれたのだからと、奥太郎と名付けてやり、川越へ帰りたいというので、仙台から旅出させてやった)
 
◇正月のにぎわい
 正月二日、三日からは万歳(注14)、田植え踊りというものが町に出て来た。大田植えというのは門付けの乞食ではなく、屋敷褒めのことで、やん十郎という者が興行の株を持っている。中でも「跳ねこ田植え」というのは、若い人たちがいろいろその場の思い付きで芸を見せ、虎狩り、雀踊り、唐人、龍人などに扮し、やん十郎がその場を仕切って、手慰みがてらに演じる。三味線は使わず、笛、太鼓、摺り鉦で囃し立て、町中を跳ね回り、大きな家は中まで跳ね込んで祝儀をもらい、それで酒を飲んでさわぐものである。
 我らがいる峰岸様の長屋内から、吉野家の息子吉兵衛が(跳ねこ田植えに)出て、帰りには酒を飲んでけんかなどもして日々大騒ぎだった。

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注1 長町=江戸から奥州街道を下って、仙台城下へ入る直前の宿場。広瀬川を渡ると仙台城下。仙台市太白区長町。

注2 目明し=犯罪者を探索するため、奉行所の与力や同心が任命する者だが、銭形平次や三河町の半七親分など時代劇でおなじみの「正義のヒーロー」と、実際の目明しには大きな落差がある。犯罪者を探索するためには、やくざなどの裏社会に精通している者でなければ役に立たないので、軽微な犯罪者の中から選んで警察権の一部を与えたのが目明し。特に地方では犯罪者が他国(他の大名の領地や天領)に逃げ込んだ場合、領主間で正式な引き渡し交渉をするのはさまざまな手続きを必要としたので、目明しのネットワークで探索することが暗黙の了解事項として効果を発揮した。
ただし、この百年ほど前、伊達の家臣の知行地で起きた領民との紛争を、正式の裁判にする前に町奉行所の依頼で探索した目明しが、きちんとした報告書を残している(高倉淳、『仙台藩犯科帳』)ことから、裏社会に通じているだけではなく、報告書を書けるだけの素養が目明しには求められたことがわかる。

注3 願主=芝居や寄席などの興行の出願者。各種興行は勝手にはできず、必ず領主に認可を願い出る必要があった。建物の新築、改築の費用を得るために興行したい社寺が願主となることも多かったが、これは必ずしも許可されなかった。ところが目明しは、探索費用は自前だったため、その反対給付として、目明しが出願すれば簡単に許可されるのが通例だった。そのために目明しは芝居などの芸人から頼りにされ、観客動員も期待される存在だった。「奥のしをり」では、目明し鈴木忠吉ではなく別人が願主となっているが、仙台城下では興行に関して特定の人が願主になることが慣例だったのだろう。ただし願主が必要なのは、小屋がけや舞台のある場所で大々的に行う興行の場合で、小規模の座敷興行は自由だった。

注4 浄瑠璃=法師が琵琶を伴奏に「平家物語」を語る芸を「平曲」という。これを「語り物」といい、織田信長の時代に、源義経と浄瑠璃姫の悲恋を題材にした「語り物」が評判となり、「浄瑠璃」と呼ばれるジャンルができた。江戸時代にはいろいろな物語が創作され、浄瑠璃は「語り物」の一大潮流となった。特に大坂では元禄期(1688〜1704)に、物語作者・近松門左衛門と、それを迫力ある節回しで語る竹本義太夫のコンビが人形浄瑠璃のヒット作を次々に飛ばし、大坂で浄瑠璃と言えば義太夫節を指すようになった。

注5 舞台には五人より多くは出られず=仙台には、江戸のような回り舞台、せり上がりのあるような本格的な常設の芝居小屋がなく、興行は臨時に建てた小屋で行われたのだろう。どこの大名も「諸事倹約」を建前としていたから、常設の娯楽施設は許可されないのが通常だった。

注6 豊後節=浄瑠璃から派生した流派。宮古路豊後という人が享保8年(1723)、師匠から独立したのを機会に語り始めたとされる。名古屋で実際に起きた心中未遂事件を脚色するなど、官能的でセンセーショナルな新しい物語を創作し、聴衆を集めた。しかし江戸ではその後、武家の妻や娘がかかわる心中事件が頻発したことから、弾圧をうけることにもなった。とは言え、江戸でも座敷興行は黙認され、江戸以外の地ではほとんど興行差し止めになることもなかった。この系譜からは常磐津、富本、清元という歌舞伎音楽も現れ、「豊後三派」とも言われている。

注7 新内節=劇場での興行から離れた浄瑠璃。文化年間(1804〜1818)、二世鶴賀新内から始まった。物語全段を語り続ける義太夫などに対し、よく知られた場面などを断片的に、軽い調子で語るのが新内で、芝居好きの人々に好評を得て広まった。新内を語って町を流して歩く「新内流し」は、現代まで継承されている。

注8 説教節=平安時代に、僧侶が仏教の教理を説いたのが「説教」だが、それが巧みな語り口と音楽伴奏がついて「説教節」に発展した。次第に世俗化し、森鴎外が描いた安寿と厨子王の物語、「山椒大夫」は説教節を代表する演目のひとつ。ただ、ほかの語り物に比べると硬い内容が多く、18世紀前半に一時期姿を消し、文化年間に復興したという。

注9 検校=琵琶、管弦、按摩、針灸などを職業とする盲人の官位の最高位。江戸時代、盲人に対してはかなり手厚い福祉政策がとられていて、音楽をなりわいとする検校には、それを教える特権が与えられていた。仙台では、その門人でなければ興行の舞台に立てないという特権があったのだろう。

注10 八人芸=一人で何人もの声色を演じたり、八人分の鳴物を一人で奏したりする演芸。

注11 鳴物師=歌舞伎で唄、三味線以外の笛、太鼓などの囃子方。

注12 お館様=仙台藩主、伊達のお殿様。

注13 画賛歌=画賛は、絵に書き入れる詩歌。ここではそれを楽しんだというから、花咲連が集まって、掛軸などの絵を鑑賞して、それぞれに画賛の歌を競い合ったのだろう

注14 万歳=だじゃれを言う才蔵と、それをたしなめる太夫という形式で、二人が滑稽な掛け合いを演じる芸。新年におめでたい文句を連ねて家々を回る三河万歳は、江戸まで出張して評判をとり、現代まで継承されている。大阪の「しゃべくり漫才」は、この形式を現代風に発展させたもの。
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