久保田城下で年を越す
◇土崎から久保田城下へ
 八月五日、久保田城下に到着した。
 寺内という所に古四王神社(注1)というお社がある。このお宮に馬の奉納額があって、この馬はその昔、毎晩絵を抜け出て遊びに出かけたといい、宮の縁側に蹄(ひづめ)の跡があるそうだ。
 ここはヤツメウナギが名物である。
 寺内には、五百羅漢の寺(注2)もある。寺の境内は広くて、お殿様がおいでになる時の座敷が用意してある。春と秋には、土崎湊からも行楽客が来る所で、風景がすばらしい。
 そこから橋を渡ると八橋やばせ(注3)という所があって、ここは城下の人々が遊山に訪れるので料理屋、貸座敷がたくさんあったのだが、今度来てみるとそれらは許されなくなっていた。しかし桜の木や藤棚は以前通りだった。
 八橋には山王宮(注4)、東照大権現の宮(注5)もある。ここから田んぼを三町ばかり行けばモ町で、ここには芝居の常設小屋がある。役者は芝居のある時は下モ町に泊まるが、普段は八橋に住んでいて、雪駄、太鼓、三味線の張り替えなどを仕事にしている。
 この先は鉄砲町(注6)といって足軽が住む町で、城下の入口である。
 ここから南は米町(注7)、寺町(注8)、東は通り町(注9)で、大町三丁目(注10)には伊勢屋九郎右衛門という古着屋がある。この人は私の昔からのなじみで、江戸へもたびたび買い出しに来た際には私のところへも訪ねて来られた。秋田では伊勢屋に落ち着き、毎日のように座敷興行をして過ごした。
 蛇野(注11)という所に、若木惣藏殿とおっしゃる方がいる。足軽頭を務めており、この人もたびたび江戸へ上った際には私を訪ねて来られたので、今回は私の方からあいさつに出向いた。
 旧知の仲吉という女芸者は、昔は踊り子だったが、今は廃業して、息子が商人になっているという。
 米町に浅井新吾という軽業師がいた。その息子は妻五郎といって我らの弟分のようなものだった。新吾さんは金毘羅へお参りすると行って江戸の私の家に来た時、病気で亡くなってしまった。今は妻五郎も病死し、その弟の小三というのも亡くなったと聞いた。新吾さんには妻と、娘が一人いた。娘は「おとめ」と言って、これは新吾さんが土崎湊に住んでいた時に養女にした子だ。私も江戸からたびたび手紙を出していたが、今は芸者になっているという。
 法花寺(注12)のお上人しょうにんも昔からの知人で、この寺のお題目講の世話人である藤井大助殿という方とも心安くおつきあいするようになった。
 亀ノ町(注13)の丸万庄兵衛殿、同じく高橋清吉殿は、昔は寄席の世話人だったが、今は町方役人になっておられる。段々と寄席に関係させられたそうだ。寄席はもともと雪の時期に座頭(注14)を救うためのもので、実入りは四分六分で分けることにして、座頭が出願した。学都という座頭が座元で、配当屋という寄席がある。昔は十月一日から許可されていたが、今は九月中から興行できるそうだ。
 今度行った時には、世話人がみな代わっていたが、丸万庄兵衛殿、田中勇助殿の二人は昔からのなじみなので、九月から出させてもらうことになった。
 それから大町二丁目、三丁目の若い衆、九郎右衛門殿の息子の義助というよい若者、伊勢屋の隣の仲長伊勢屋の別家の三丁目伊勢屋の十右衛門殿、二丁目の山崎屋万蔵殿とおっしゃる落語好きのお方には、ことのほかごひいきにしていただいた。
 伊勢幸といって二丁目で古着屋をやっていた方が、今は田中という所で酒造りを始めて伊勢(岩間)屋文六殿とおっしゃり、なじみなので、今回もたびたび呼ばれた。
 片岡慶助殿は銅山役人(注15)で、能代で吟味役をお勤めだが、これも昔からのなじみで、その若旦那は郡蔵殿とおっしゃって大小姓(注16)であり、ひいきにされてたびたびお会いした。
 鈴木仁兵衛様は大番組(注17)の方で、この方にもたびたびお会いした。

◇久保田城下で間借りして腰を落ち着ける
 ここでひとまず土崎湊に帰り、九月まで宿にしていた富次郎さん、筆屋嘉七さん、それに仙台から来ていた勘右衛門という道楽者と毎日のように船を借り、弁当を持って、江戸ではハゼといい、ここではグツという魚や、鯉、鮒などを釣りに出かけて楽しんだ。
 ほどなく九月になったので、久保田の城下、亀ノ町の大工で喜兵衛さんの家の座敷を間借りして引っ越した。
 (下亀ノ町の配当屋のある場所は、昔は正法院という山伏がいた所だが、こいつは大変心がけが悪く、人に憎まれていて、ある時、町内の人たちと争いごとになって負け、この場所を追い立てられた。それを残念無念と思ったのか、山伏は家の井戸に身を投げて死んでしまった。その井戸は埋め、その上に家を建てたのだが、そこに一か月以上住んだ人はいなかった。山伏の幽霊が出るので、住んでいられないのだという。そのことをお上に申し上げると、目が見えない座頭であればどんなものが出てきても見えないだろうから、座頭にくれてやれということになり、この場所に配当屋を建て、寄席としたのである。初めのうちは四つ(午後10時)まで寄席興行をして、それが過ぎると終演として、泊まる人もいなかったのだが、後々にはなんのたたりもないというので、今では座頭の人たちが住居としているということだ。そんなわけがあるので、怪談噺や化け物の咄はしないことになっていて、昔の咄、浮世(現世)の咄ばかりをする。何年か前、近所の火事で類焼した際、世話人がちっとも面倒をみてくれず、座頭の人たちは目が見えないので寄席の道具や敷物まで外に持ち出すことができずに焼いてしまった。それで座頭たちが腹を立て、ほかの町に引っ越すと言い出した。それを役所にお願いしたが、山伏の幽霊が出るというわけがあって家を下されたのだから、ほかの町へ引っ越すことは許されないと仰せつけられた)
 世話人の田中勇助、丸万庄兵衛、大工の長四郎、桶屋の利八さんらのお世話で、九月二日から寄席興行を始めた。
 同じ町の目明し、栗田屋嘉兵衛さんの父親は、江戸で浄瑠璃の三味線を弾いていた野沢富八という人で、秋田へ来て遊郭を開いておられた。
 それから四十軒堀(注18)の亀吉殿、米町の惣太殿などの目明しへもあいさつに行った。
 同じ亀ノ町の永栄という人の住まいは、田中玄仙という医者の跡地(本荘屋敷)で、仙台まで落語家として行ったことがあるという。その玄仙という医者は、「茅の屋の雁根」と名乗る狂歌師で、茶番狂言などをした面白い人だった。この人も私と兄弟同様に親しくしていた。今は故人になられたが、永栄を手伝わせていたものだ。
 米町に唐吉という人がいる。この人も昔は軽業、手品などをしたし、太鼓や笛もこなした人だ。今は上野(注19)という所に住んで、上野慶四郎という金持ちの世話になっていた。やはり昔からのなじみなので、寄席の鳴物などを手伝わせることにした。
 寄席は大入りで、35日間も興行した。

◇土崎で大火直後に寄席興行
それからまた土崎湊の、番頭の半次殿とおっしゃる方の家へ行って興行の相談をした。この人は最上の山形の弁慶殿という道楽者の番頭をしていたので、通称を番頭半次殿とおっしゃられるのである。
 土崎では、団次殿、大坂辰殿、菓子安五郎殿、富次郎殿が世話人になり、二十日間の寄席興行をすることにした。ところが、我々の相談はまとまったのに、十月三日に土崎で火が出て柳町の木戸まで焼けてしまった。町の数では三町ばかり、戸数では三百軒も焼ける大火で、我々の寄席興行も延期しなければならないところだったのだが、お上からのお許しを得ていたことなので、無理にでも興行を始めた。
 そうしたところへ、三笑亭五楽の弟子の鵜楽蔵蝶の門人という、英蝶というのが訪ねて来た。これは一晩泊めただけで、久保田の城下へ使いに出した。というのは、久保田で祭文(注20)興行をしたのだけれどさっぱりの不入りだと聞いたので、すぐこちらへ来て興行するように言いつけたのである。
 そしてまたまた、五楽夫婦が南部から私のあとを追ってやって来たので、二、三日寄席を手伝わせた。五楽の女房は富本山雀(または鶴=注21)と言って、豊後節を語るので、土崎の皆さんに頼んで座敷興行をさせたところ、筆屋の芸者おとみ・・・おりわ・・・、久四郎殿の芸者おさく・・・などが豊後節を稽古したいと言い出し、そのほか四、五人の門人ができて稽古を始めた。
 我らは寄席を打ち上げて、十一月十日に久保田の伊勢屋へ行き、五楽夫婦については土崎の久四郎殿にあとのことを頼んでおいた。
 それから久保田では、町奉行の加藤五左衛門様をはじめ、城下の内町(注22)のあちこちで年忘れのお座敷を務めた。伊勢屋の息子の義助が江戸へ買い出しに出かけていたので、その留守中は九郎右衛門殿と酒を飲んで楽しみ、めでたく年越しをした。法花寺へも九郎右衛門殿と一緒にたびたび訪ねた。

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注1 寺内の古四王神社=寺内は、土崎湊から久保田城下への途中の丘陵地帯。その中の高清水丘陵には古代、蝦夷地経営のための出羽柵でわのさくが設けられた。古四王神社も、坂上田村麻呂がこの地に、4柱の祭神を祀って創建したと伝えられる。
「古四王」は「越王」、つまり「越の国」(越前、越中、越後の総称)と、仏教の守護者である四天王を合わせて命名されたと言われている。秋田県内にはほかにも古四王神社があるが、明治になって、寺内の古四王神社は秋田県一の宮の格式となった。秋田市寺内児桜。

 注2 五百羅漢の寺=秋田市寺内神屋敷の曹洞宗・西来院せいらいいん。能代の船頭が仏門に入り、遭難死した多くの舟子(船員)を供養するため五百羅漢の彫刻を始め、350体で満願となった。このうち103体が現存し、西来院は一般には羅漢寺と呼ばれている。

注3 八橋=坂上田村麻呂が、秋田市街地の南部、牛島から強い弓で矢を射たところ、その矢が落ちたのがここで、「矢走やばせ」という地名ができたとの伝説がある。佐竹氏が久保田に城を築いた頃はまったく人家がなかったが、城下の方から新田開発が進んで村ができ、18世紀の半ばになると、城下と土崎を結ぶ街道沿いの行楽地としてにぎわうようになったという。現在は野球場、ラグビー場、陸上競技場、体育館などのあるスポーツゾーンになっている。

 注4 山王宮=城下外町の鎮守、日吉八幡神社のこと。山王は日吉神社の別称。平安時代に安倍宗任が土崎の東方の外旭川に、近江の日枝山王と石清水八幡を勧請したのが始まりと言われる。秋田藩の初代藩主、佐竹義宣よしのぶが八橋に移し、その後、現在地に社殿が造営された。

 注5 東照大権現の宮=古地図では、山王宮の裏手に東照宮が記されている。

 注6 鉄砲町=現在は秋田市保戸野鉄砲町にまとめられているが、江戸時代は表鉄砲町、南鉄砲町、北鉄砲町があり、秋田藩の鉄砲組、兵具組の足軽が住んでいた。なお、現在の大町6丁目にも鉄砲町があったが、ここは純然たる町人の町で、鉄砲鍛冶が住んでいた。

 注7 米町=上米町と下米町があった。それぞれの1丁目が秋田市大町1丁目、2丁目が大町2丁目に含まれている。慶長18年(1613)、土崎穀町の米商人を移転させてできた町で、城下では米町以外での米の小売りを禁止して、商人を保護した。

 注8 寺町=佐竹氏は、久保田城(現在の千秋公園)の防衛線として、少し距離を置いた西側一帯の南北に寺院を並べた。現在の秋田市旭北栄町から旭南2丁目まで、およそ1.3`に及ぶ。

 注9 通り町=現在の秋田市保戸野通町。城下町の最初から商人の町として区分けされ、朝市を開く特権を与えられていた。この町の東端を旭川が北から南へ流れていて、旭川を越えると上級武士だけが居住する「内町」、旭川までは町人と下級武士が住む「外町」と区分された。
 元禄2年(1689)に旭川を渡る通町橋ができ、番所も設置された。また、この橋は、死刑囚の首をさらす場所でもあった。

 注10 大町三丁目=城と寺町の間に、南北に連なるのが大町で、1丁目から6丁目まである。2丁目と3丁目を分けるのが、夏の竿灯祭りでにぎわう山王大通りだ。

 注11 蛇野=秋田市手形蛇野。城の東にあり、現在はJR奥羽本線がその間を通っている。

 注12 法花寺=法華寺が正しい表記。元々は、文亀2年(1502)、土崎に創建された秋田県内最古の日蓮宗の寺。日蓮宗なので、和尚とか住職と言わず、尊称をお上人という。久保田城下の都市計画の一環で、現在の秋田市旭北寺町に移転した。

 注13 亀ノ町=上亀ノ町は現在の大町1丁目、下亀ノ町は大町2丁目。上亀ノ町には天保の頃には芝居小屋ができ、それに伴って人形芝居や曲ゴマ、猿回しなどの大道芸人も集まるようになり、無許可だが料理屋もできて盛り場となった。
 語佛師匠が書き留めた幽霊は、似たような話が伝わっているが、それは下亀ノ町ではなく、上亀ノ町のこととされる。『秋田の今と昔』(井上隆明)によると、寄席の配当屋も上亀ノ町にあり、天保13年9月に2代目船遊亭扇橋(語佛師匠のこと)が35日の落語を打ち、翌年2月にも25日間落語を語ったと紹介されている。
 
 注14 座頭=琵琶、三味線などを弾いて物語を語る芸を持っているか、または針灸やあんまなど、職業を持つ盲人。僧侶と同じように髪の毛を剃りあげていた。配当屋は寄席なので、芸人の座頭の家となったのだろう。

注15 銅山役人=勘定奉行の下で、銅山の管理を担当した役人。秋田藩内には多くの鉱山があり、役人も多かった。ここに名の出て来る片岡という人は、「能代で吟味役」と書かれているので、阿仁銅山など米代川を使って送られてくる粗銅を大坂へ積み出す前に、最終的なチェックを担当する役目だった。

 注16 大小姓=藩主や世子の身の回りの世話をする。

注17 大番組=城内警備が役目。

 注18 四十軒堀=四十軒堀町が正しい。現在の大町6丁目で、昭和の初めまであった旭川に流れ込む掘割が地名の由来。江戸時代は、鷹狩の鷹のえさにする雀を集める「鳥役所」があった。現在は新政あらまさ酒造のある辺りだが、四十軒堀町の佐藤卯兵衛が酒造を始めたのは嘉永5年(1852)なので、語佛師匠はこの銘酒の味を知らない。

注19 上野=秋田市川尻上野町。市街地の南西地域、旭川と旧雄物川(秋田運河)の合流する辺りまでのかなり広い地域が川尻で、上野には藩士が乗馬の稽古をする馬場があった。

 注20 祭文=元来は山伏の祝詞の一種だが、俗化し、江戸初期には伴奏もつく「歌祭文」という大道芸になった。題材は雑多だが、中でも心中物が人気を得て、「お染久松」や「八百屋お七」などの曲ができた。最初は山伏の持つ錫杖しゃくじょうで伴奏したが、それが三味線になり、あるいは錫杖と三味線の両方で伴奏することもあった。明治になって、祭文から発展したのが浪曲。祭文は今でも、全国各地の郷土芸能に残っている。

注21 または鶴=原本に記されている注釈。原書の崩し字を解読する際、「雀」とも「鶴」とも読めたのだろう。しかし「山雀」はヤマガラという鳥の名であり、意味のある字なので、芸名としてはこちらが妥当と思われる。
 
注22 城下の内町=旭川を越えた、久保田城の周囲が純然たる武家町。通町の項でも触れたように、旭川を渡るには番所を通過しなければならないが、語佛師匠は町奉行の私邸にも呼ばれており、秋田で大人気を得ていたと想像できる。
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