春には津軽へ向かう
◇二月に五城目へ
 正月二日に、九郎右衛門殿の家で咄始めをして、それから毎日のように座敷興行をした。
 (九郎右衛門の息子で、江戸へ古着の買い出しに行った)義助殿に、江戸の堺町の成田屋市右衛門宛て(注1)、ならびに門人の都々逸坊扇歌、入船扇蔵宛ての手紙を託していたが、二月に秋田へ帰る際に返事を持って行くと江戸から便りがあり、ひと安心した。
 肴町(注2)の料理屋「お屋か部」(注3)、豊島町としままち(注4)の竹半などという所へ、たびたび座敷興行へ行った。
 茶町扇ノ町(注5)に住む利助というのは、先年、私の弟子にした者だが、たびたび酒肴などを贈ってくれる。旧知の「おとめ」や仲吉などよりも頻繁に酒肴をもらった。
 九郎右衛門殿は、「言葉の綾丸」と名乗る狂歌師でもあるので、しょっちゅう狂歌などを作って楽しみ、遊んでいた。
 正月十六日には、鎌倉祭りというのがある。城下の内町では男子が生まれると、十五歳になるまで鎌倉祭りをする。門前に雪で城をこしらえ、これにその家の家紋のついた幟を立て、わらを束ねて火をつけて、城の両方から振って合戦のまねをするのである。これは鎌倉の権五郎(注6)を祭るのだということだ。
 十六日は、昼も夜も久保田の芸者、座頭までもが二、三軒ずつお座敷芸を頼まれ、私も吉田藤五郎様、梅津様、そのほか二、三軒、咄を頼まれた。土崎から五楽も呼び寄せて二、三軒行ってもらった。
 中山政吉様とおっしゃられるのは御物頭(注7)だが、この方も昔からのなじみで、たびたびうかがった。
 二月一日から、またまた配当屋で、五楽も入れて寄席興行を始め、これまた二十五日間も続けた。
 そして、また能代の八郎兵衛からお誘いが来たので、久保田を出て土崎から五城目(注8)という所へ行った。これは六丁目(注9)の川端松五郎殿とおっしゃられる方が五城目の人で、「なにとぞ五城目への道連れにしてほしい」というので、松五郎殿、五楽夫婦と一緒に行った。
 五城目は、一日市から半里ほど脇道にそれた所で、松五郎殿の兄で、鍛冶屋の喜兵衛殿とおっしゃる家へ行き、その家で五日間寄席を開いた。

◇能代まで足をのばす
 それから能代の丸万八郎兵衛殿を訪ねて、仕平殿、そのほか目明し衆の世話になり、柳町の善助殿の家で十五日間の寄席興行をした。
 能代では昨年の暮れから芝居などをやっていた。だんほう宗五郎(注10)という人が世話人で、役者は中村舎柳、市川白十郎、女形は小佐川美よし、中村駒次郎、そのほか二十人ほど役者がいた。その中に津軽から来た坂東福介という役者がいた。これは上方の子供芝居の役者で、越後から松前へ渡り、そのあと津軽から来たという。しかし、芝居の許可は得ていたものの、旅役者は許されず、地元の役者でなければならないと久保田のお役人から言ってきたので、大騒ぎになっていた。本当に気の毒なことで、役者はもとより、地元の関係者も去年からこの三月まで飯を食わせておくだけという迷惑千万なことになっていた。これからどうなるのだろうか。

◇さらに津軽へ
 私は、寄席を打ち上げてから病気になり、長々と八郎兵衛殿のやっかいになってしまった。五楽夫婦を三月二十日に土崎湊へ帰した後、ようやく病気も全快したので、かねてから大淵彦兵衛様のところに来ていた、津軽片谷という方の番頭の三国屋鎌吉という人とお近づきになり、お座敷を務めた。すると「津軽へも来てほしい」と言われたので、四月六日に能代を出発し、加護山(注11)から大館へ行った。
 大館は、佐竹大炊之助様のご支配で、石高は九千八百八十三石だが、一万三千石の格式がある。
 ここから米代川の渡しをひとつ越えて扇田へ行き、そこから一里半で十二所へ行った。ここは南部(盛岡藩)と秋田藩の境の御番所があり、茂木筑後様とおっしゃる五千石のお家が治めている。
 大館では、目明しの須藤半八殿、同役の原田三四郎殿をお訪ねすべきだったが、津軽へ急がなければならなかったので訪ねなかった。
 また、江戸両国で操り人形芝居をやっていた山本良次という人が、酒田与平次殿の世話で松前へ行き、この春に海を越えて戻り、半八殿、三四郎殿の世話になっていると聞いていた。この良次と言う人は、通称を男熊といって、とても懇意にしていたので、久しぶりに会いたかったが、まずは津軽へ行って、その帰りに会おうということにして、今回は誰も訪ねなかった。
 大館では、大町の越前屋吉郎右衛門の宿に一泊しただけで、津軽を目指した。

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注1 堺町の成田屋市右衛門=堺町は中村座があった江戸の芝居町。成田屋は、市川団十郎と、その一門の屋号。市右衛門も一門か、その関係者なのだろう。

注2 肴町=上肴町(現在の大町1丁目)と、下肴町(大町5丁目)の2か所があった。どちらも専業漁商の町。肴町は土崎にあった町名で、まず元和5年(1619)、上肴町に商人が誘致された。その20年後に下肴町ができた。時代が下るにつれて料理屋もできた。

注3  お屋か部=「おやかべ」と読ませるのだろうか。原文は「お屋部」で、注釈として「か」が挿入されている。この店が上肴町なのか下肴町なのかも含めて、詳細は不明。

注4 豊島町=現在の秋田市大町5丁目。文政5年(1822)1月の火事で丸焼けになるまでちらほらと料理屋があったが、火事の後、町内復興の陳情を重ねた結果、2月末に料理屋株の独占営業権を得た。「奥のしをり」の頃は寿司屋もある料理屋街となっていた。語佛師匠がお座敷を務めた竹半も、その1軒だろう。

注5 茶町扇ノ町=「扇ノ町」は「扇之丁」と書くのが正しい。現在の秋田市大町3丁目で、山王大通りに面した一角が扇之丁。茶町には扇之丁のほか、菊之丁(大町2丁目)、梅之丁(大町4丁目)と3丁あり、茶、紙、綿、砂糖、畳表やゴザ、傘、糸、それに位牌、扇子、鰹節など種々雑多な生活物資の店が並んでおり、お城の御用達商人もいた。今も江戸時代以来の老舗がある。

注6 鎌倉の権五郎=八幡太郎源義家の家臣、鎌倉景政(かげまさ)の通称が「権五郎」。後三年の役の際、金沢柵(かねざわのさく)の戦いで右目を射られたが相手を射殺し、三浦為嗣がその顔を踏んで矢を抜こうとしたところ、その無礼をとがめ、ひざまずかせて矢を抜かせたという豪傑。金沢柵の場所は、横手市金沢中野字権五郎塚といい、その名前が伝承されている。
歌舞伎十八番のうち、市川団十郎が演じて大人気となった「暫」しばらくの主人公が、鎌倉権五郎とされる。はっきりその名前が出たのは明治になってからだが、江戸時代から権五郎を想定したセリフがあり、庶民には周知のヒーローだった。

注7 御物頭=足軽の頭領。足軽には弓組、鉄砲組などがあり、戦争になれば彼らを統率して最前線に立つのが物頭。

注8 五城目=南秋田郡五城目町。羽州街道からは少し東に入った所で、江戸時代は馬市や定期市が開かれてにぎわっていた。
 「奥のしをり」では「五城目は、一日市から半里ほど脇道にそれた所」と書いているが、この道はそのまま南秋田郡から郡境の峠を越えて北秋田郡に延び、鷹巣(北秋田市)で羽州街道につながっていた。羽州街道を短絡する脇街道で、現在の国道285号にほぼ重なる道筋。「五城目街道」と呼ばれ、阿仁鉱山(後に銅山になるが、初期は金を産出した)へ米を補給する重要な往還として、藩政初期から整備されていた。

注9 六丁目=町名を明記していないが、本町6丁目(現在の大町6丁目の旭川に近い一帯)しか、6丁目という地名はない。

注10 だんほう宗五郎=「だんほう」にどんな字を当てるべきか不明。古文書では半濁点を表記しないので「だんぽう」と読むこともでき、あるいは檀家とか檀徒を意味する「檀方」かもしれない。仮にそうだとしても、宗五郎という人の実像は想像できない。

注11 加護山=羽州街道の荷上場宿(能代市二ツ井町荷上場)から、米代川の支流の藤琴川を渡った対岸。宿場ではない。前に大館から能代へ来る際には、小繋宿から荷上場宿まで「一里の渡し」と言われる舟に乗ったが、今回は荷上場からすぐ対岸に渡ったので、「加護山から大館へ」と書いたのである。
 加護山には、阿仁銅山の粗銅から銀を抽出する精錬所があった。前々から近くで産出する鉛の精錬所があったのだが、安永2年(1773)、秋田藩が招いた平賀源内から、粗銅の中から銀を取り出す高度な精錬技術を教えられ、翌年、ここに銀の精錬所ができた。これで秋田藩は大きな利益をあげた。そればかりか、幕末になると、正規の通貨である天保銭や、秋田藩内だけで通用する各種の銭の鋳造を始めた。幕府の許可を得ていない秘密工場で、戊辰戦争の軍用金まで造った。勝手な通貨鋳造を明治政府が禁止した後も続けていたことが明治4年に発覚し、秋田藩が証拠隠滅のために関係書類をすべて焼却したので、文献はないが、幕末の最盛期には加護山精錬所で5百人もが働いていたという。
 語佛師匠が加護山に上陸した時も、精錬所の警備は厳しく、羽州街道を通る旅人の船着場は精錬所から離れた、少し下流にあったと推測される。
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