10.  「つきのおろちね」
 江戸時代後期の1812年(文化9年)、太平山に登った紀行家・菅江真澄の日記がある。
 その年の7月13日、寺内の鎌田正家(まさやか)の家にいるところから記述は始まる。そして7月20日、山頂から下山にかかり、22日、久保田に近づいていくところで記述は終わる。原本を読むのは大変だが、幸い現代誤訳で日記を読むことができる。平凡社ライブラリーの「菅江真澄遊覧記」(1巻〜5巻)の中の第5巻に「つきのおろちね」として収録されている。この紀行が太平山についての文献としてはもっとも信頼の置けるものだ。
 「つきのおろちね」の中には、平城天皇の大同年代(806年―810年)に、太平山頂上に神を祀ったとある。清和天皇の貞観の年代(859年―877年)には、木曽石から前岳・中岳へルートが作られた、ともある。延暦年代(782年―806年)に三吉神社が創建されたとされているから、平安の昔から太平山は足しげく登られていたのだ。
 日本人は森の民だから、山に登ることには抵抗はなかった。何よりも山には下界にはない自由があった。全国の名のある山には「講」が組織されていた。人々はこの講に入って山登りを楽しんだ。
 三吉神社の前宮司・田村泰造著「太平山の歴史」(1980年刊)によれば、太平山講と三吉講はあわせると現在でも全国に220に及び、崇敬者は5万5000人にも及ぶという。
 さらに「太平山系埋もれた石像」(1994年刊)によれば、この本に載せられている石像の数は173体にも及ぶ。ほとんどが江戸時代のものである。重い石を山上まで運び上げて設置するには並大抵の組織力では不可能である。人々の願いの切実さに瞠目してしまう。
 「太平山」という現在の名称についても一筆しておきたい。
 鎌倉時代、大江氏が地頭として現在の太平集落に入った。そのことから大江平(オオエダイラ)と呼ばれるようになり、それがオイダラと訛り、背後の山をオイダラ山と近隣住民は呼び習わし、やがて佐竹氏の入部以来、太平山(タイヘイザン)という名称が定着した、と言われている。だが、異説もある。全国には多くの同じ呼び名の太平山がある。この多くは大太郎法師(オオタロウボウシ)と言われる神話上の巨人伝説がもとになっている。大太郎法師がなまって「オオダラボッチ」になりやがて「おおだいら」が「太平」と表記され現在に至る、という説だ。
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