11.  真澄は健脚
 江戸時代は、久保田側だけではなく、北側に位置する上小阿仁村側からも、修験の先導で太平山への登拝は盛んにおこなわれていた。最奥にある集落の萩形(はぎなり)はすでに1822年(文化5年)に拓かれている。1969年にダム工事によって登山道が閉ざされるまで147年間も、萩形は太平山の北の入り口として栄えていたのである。
 県内の山々の中で、太平山ほど麓に住む人々の願いが張り付いていた山はなかった。石像ひとつを見つめていても、かすかな風に乗って当時の人々の唱和する声が聞こえてくる。
 菅江真澄の「つきのおろちね」に戻ろう。この中には1812年ごろの太平山の登路の様子や頂上のお堂、篭舎、動植物、登ってくる人々などについての記述もある。
 真澄は7月18日、太平目長崎に一夜の宿を取った。一行はいずれも名にしおう歌人たちだ。道中での歌を紹介する。
 「草枕 かりぬるやどにすずむしの ふるさとしのぶ 声こそをきき」(目長崎にて)
 7月19日には、目長崎を7,8人で出発、現在の野田口から入山。険しい沢路を辿って女人堂(700m)まで登る。
 女人堂は新城の黒川村の鉄玄法師が苦労して建てたお堂で、広さ2間と3間(6坪)の建物だ。寛政年代(1789年―1801年)まで、女性もここまでは登れたのだ。多くの女性登山者でブナ林に歓声や嬌声が絶えなかったという。日常のしがらみから開放された空間がそこにはあった。
 真澄が登ったときには、もうこのお堂は小さくなっていた。女人堂でも一首。
 「吹きわたる風こそなけれいや高き みねより峰の雲のかけ橋」
 真澄の一行には案内人や強力もついた。同行した人々は歌友達であったから「移動歌会」といってよい。この山行でも数多くの名歌を残している。
 夕方近くなって弟子帰りの岩場に来た。3尋(5.4m)の鎖が下がっていた。「たっちら」(ダケカンバ)の木があったという。
 やっと頂上にたどり着いた。大峰(奥岳)にはすでに三吉神社のお堂があり、隣に篭舎もあった。篭舎は満員だったので、狭いお堂にやっと横になった。登りのルートは現在とあまり変わりない。
 真澄が登った日は雨模様だったらしい。7月とはいえあの険路をよく登ったものである。真澄は59歳。あの当時の59歳はりっぱな後期高齢者なのに見事な健脚である。
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