24.  太平山のスリップ事故
 スリップとは滑ることだけでなく、石につまずくなどの歩行リズムが乱れることもさす。山は斜面だからスリップすれば必ず滑落する。場合によっては致命的な傷を負うことになる。マラソンなどでは、次に自分の足をどこに置くかを考慮する必要はない。山では大小の岩や石、水溜り、濡れた草や地面の見えない薮のなかを進む。一歩間違えば、崖から転落してしまう道もある。スリップの危険が予想されるところでは、岩場であればアンザイレン(お互いにザイルで体を結び合うこと)して滑落に備えるし、氷の斜面ではアイゼンを靴につけ、ピッケルで氷の斜面に足場を作って登る。
 太平山でもスリップによって事故は数限りなくある。丸い石に乗って滑ったり、濡れた岩に足をとられたり、大きな石を抱いてそのまま落ちたり、体を持ち上げるためにつかんだ草木が抜けたり、誰しも必ずひとつかふたつ危ない目に遭った経験はあるだろう。
 スリップは体のコントロールが失われることだ。どこでどう止まるかは、まったくの運しだい。登山者にできることはスリップしないように、最大限の注意を払うことしかない。そうした事故に遭遇した場合、どうするか考えておくことも重要である。
 それでもスリップは起こる。スリップは街でも日常的に頻発している。先日も私の友人が自動草刈機で事故を起こした。路肩の急斜面で夕方作業をしていたのだが、スリップして頭から落ち、下のコンクリート側溝に後頭部を撃ち即死だった。
 2007年2月には、太平山の稜線からオーパス・スキー場に下るルートで、ところどころ凍結したブナ林を下っていた私の友人がスリップ。長靴に縄を巻いていたが、あっという間に急加速。大きく口を開けた谷を目にして彼はとっさに目の前の倒木に自分からぶつかっていった。幸い片足骨折だけで済んだのだが、冬の日暮れは早い。登り返しもかなわずに途方に暮れていると、運よく登山者が下って来た。その登山者がヘリを手配してくれたおかげで、日没寸前に帰還することができた。
 2012年5月には太平山の野田口で、ある夫妻があと少しで沢に下るという地点で、後から歩いてきた妻が、「アッ」と声を発して視界から消えた。なぜスリップしたのかはわからない。夫が駆けつけてみると、左側の急斜面を転げ落ちていく姿が見えたという。とても自分の力量では降りられない急斜面だったので、いったん沢に下りて、沢沿いに上ると、すでに夫人は虫の息だったという。救援を求めて夫は7kmの道を野田集落まで走った。妻はヘリによって収容されたが、倒木が体に刺さり結果的には助からなかった。
 太平山は低山だし稜線近くまでブナなどの森林に覆われている。冬でも雪面が凍結して危険なところは、弟子還りなどの岩場を除けば少ないほうだ。スパイク付きの長靴でほとんど歩けるのだが、前述のようにスリップは季節を問わず発生している。
 山道はもちろん沢登りなどの錯綜したルートでは、よほど注意しないと、時計や眼鏡を壊されるのはいいほうで、足をくじいたり、打撲によって痣の地図を体中に作ったりする。お互い笑いあえる余裕のある山行で済ませたいものだ。
backnumber