27.  マムシとスズメバチの話
 前岳・女人堂のベンチに座って、ふと後ろを見たら、ミネヤナギの葉の上にマムシがチョコンとドクロを巻いて、こちらを睨んでいた。マムシには何度も睨まれたが、咬まれたことはない。山中でマムシに咬まれたら厄介である。病院まで短時間で運ばなければ命取りになってしまう。ヘリがあるだろうという人もいるが、ヘリは悪天候では飛べない。
 現在と違って65年前の1957年ころ、秋田県内の山のガイドブックはほとんどなかった。地図も5万分の一だけで、山へのアプローチとして利用される鉄道や道路も貧弱そのものだった。
 1957年夏に、秋田県の乳頭山(1478m)から岩手県葛根田川上流にある滝ノ上温泉(680m)まで歩いた紀行文がある。串田孫一編『忘れえぬ山』全3巻(旺文社文庫)の中にある「乳頭山から裏岩手へ」だ。著者は「仙台山想会」の創立者・岡田喜秋。この2年後の1959年4月に「山と渓谷社」からやっと『東北の山旅』(¥150円)というガイドブックが初めて刊行された。本格的なガイドブックはこれがはじめてなのである。
 岡田さんの紀行を読んで仰天した。乳頭山の下りでマムシに何度も睨らまれ、立ち往生していたからである。当時近くにある網張温泉(770m)は今にも崩れ落ちそうな小屋だった。その湯にもマムシが時折入ってくるから、ゆっくり温泉にも入っていられない、と岡田さんは書いている。マムシよけにネットが必要だから「網張」温泉だ、というわけである(もちろん俗説であるが)。その網張温泉に泊まって岩手山に登った時に、小屋番のオヤジからから聞かされた「マムシの話」には体がこわばった。2mもあるマムシが何メートルも飛んで襲ってくる、というのである。実際、葛根田川流域はマムシの生息密度が濃く、その捕獲のため製薬会社が地元の人を雇っていたほどである。
 怖いと思った相手は、よくその相手を知ることが最もよい対処法だ。マムシなどその典型だろう。確かに死に至る毒を持ったヘビではあるが50cmほどまで近づかないと咬むことはないおとなしいヘビだ。短くずんぐりしていて頭が三角形なので見分けやすい。なによりも他のヘビのようにすぐ逃げたりしない。ヘビは益虫だ。殺すことは避けたい。
 山道でマムシを見つけると、「マムちゃん、ちょっとよけてくださいね」とストックでさそばの薮まで逃がしてやることにしている。殺そうとしたり、捕まえようとしないことが肝心だ。登山靴を履いていれば大丈夫である。
 一昔前、マムシに咬まれたら「心臓に近いほうをきつく縛れ」とか、「ナイフで患部を切って血を吸い出せ」とか教えられた。これらはすべてやっていけないことである。アメリカの毒蛇の権威・ラッセル博士は、ガラガラヘビなどに咬まれても、「あわてるな、縛るな、切るな、酒を飲むな」と言っている。つまり何もしないで医者に連れて行け、というのが正解だという。
 ちなみにマムシ以上に怖いのがヤマガカシだ。このヘビは気性が荒い。いつか太平山でコブラのように頭部のエラを広げたヤマカガシが威嚇してきたことがあった。これは怖かった。でもマムシやヤマカガシよりも怖い虫類が太平山にはいる。スズメバチだ。なぜか太平山にこのハチは多い。登山道から10mも離れていない大きなイタヤカエデの枝に、直径30cm以上もある巣が一晩で吊り下がっていたことがある。大きなハチが矢のように顔を掠めたので気がついた。冬になったら落としてやろうと思ったが、幸い強雨が流し落としてくれ助かった。
 今夏(2017年)の「秋田山岳会」会報に、ある沢登りの記録が載っていた。太平山系の馬場目岳(1037.4m)の南西にある馬場目岳沢の話だ。ここを遡行し、薮の中を頂上に向かって悪戦苦闘していたとき、突然スズメバチの群れに囲まれた。無我夢中で逃げ、追ってこないことを確認し、隣の沢を越えて難を逃れたという。スズメバチは2度めが危ないという友人もいる。1度めはどうということもなかったが、2度目の時は目の前が暗くなり意識朦朧となったという。考えてみればクマよりも怖い。
backnumber