3.  浪花節だよ、山行きは
 私たちは、デカルトやニュートン以来、すべての事象を数字で説明できるというデジタル的な思考にはまり込んでいる。自然は法則通り動いているなどと考えるのは、人間がいかに自然を知らないかを証明するだけだ。自然も人間も絶えず動き、変化し、循環する。人間が知っていることなどほんのわずかだ。
 なぜ毎日同じ山に登るんですか。それは楽しいのですか。とよく聞かれる。
 まじめに答えようとすると浪花節になってしまう。理屈すなわち数字でなど表現できないものだからである。
 こういう話もある。熊本の水俣病が問題になっていた1960年代、心ある人々が患者たちの支援組織を立ち上げようとした。しかし労働組合の幹部たちは不利な状況や運動の困難さをくだくだと述べ躊躇を隠さなかった。そのときに支援者側の一人である渡辺京二さんは一言こう言い放った。「小賢しいことを言うな、これは浪花節なのだ」。運動はこの一言で前に進みはじめたという。渡辺さんはあのベストセラー『逝きし世の面影』(平凡社)の作者である。
 太平山・前岳に「毎日登山」を始めたころの登山口は仁別の温泉施設のある「ザ・ブーン」から往復だった。夏季はヤマヒルに悩まされ続け、人里が近いせいかクマにもよく挨拶された。後年、登山口を「金山の滝」に変えた。「ザ・ブーン」のルートが物足りなくなったからである。
 当初は、金山の滝ルートはザブーンルートに比べて、花も少なく樹木の種類も少なかった。ところが入山者が多くなると、花たちは俄然活気づき、その種類も数も倍々ゲームになった。前はあまり見かけなかったカタクリ、ヒメシャガ、コキンバイ、エゾイワハタザオ、ルイヨウボタンなどが、いたるところに咲き出したのである。ニシキコロモなど昨年は2箇所しかなかったのに今年は30箇所で咲き誇っていた。
 植物は人間と似ているところがある。与えれたところを動けないし逃げられない。だから動物以上に、感覚や防御の感覚が研ぎ澄まされ、自らの調整システムを持っている。
 植物に人間の個体識別はできないが、その人が以前に来たことがある、ということはわかるのでは、という説もある。植物には視覚、聴覚、触覚、臭覚もあるのだそうだ。
 動物だって同じ。北米のロッキー山脈でオオカミの家族(パック)に入れてもらって2年間オオカミと生活をともにしたイギリス人の40代の男性の経験を書いた本は衝撃だった。
 毎日、花の前を歩いて、「きれいだなあ」と褒め続ければ、花たちも喜んで数を増やすのではないか、とついつい発想も浪花節調になる。浪花節の世界は相互扶助の世界でもある。その相互扶助の心が人間世界から失われて久しい。モノは溢れてココロは貧しくなる。山を歩きながら、そんなことを考えている。
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