7.  縄文の太平山
 「いにしえ」とは縄文時代からの長い年月である。縄文時代は最後のヴェルム氷期が終わってほぼ10000年前、急速に地球が暖かくなった時期から始まる。
 現代はやがて来る次の氷期までの間氷期。現代に至るまで太平山を取り巻く自然環境に基本的な異変はなかったといってよい。
 太平山を覆う植物相は冷温帯落葉広葉樹林帯だ。ブナやナラを主体としている。さらに太平山は火山ではないから基本的に生成したときと山体に変化はない。それは鳥海山などの火山と比較すればよくわかる。鳥海山は噴火を繰り返し、そのたびに山体を変えている。  
 1801年、わずか200年前の大噴火では、象潟が隆起し新山が形成された。享和元年に発生したので「享和岳」と呼ばれていた。
 火山ではなく、しかも気候も現在とそんなに変化はなかった太平山は、標高も森林限界ぎりぎりで、雪の時期も年間の4分の一くらい、人間が入山するのにあまり抵抗はなかったのではないだろうか。
 縄文時代は採集狩猟生活だ。衣食住は野生動物と同じ条件下だったということになる。この時代は長期間にわたるので一概にはくくられないが、縄文晩期(2300年前)について言えば、人口は全国でほぼ15万人、平均寿命は11年、一日3時間体を動かせば食べることができたと言われている。汗水たらして働いて、しかもストレスの塊のような現代のわれわれの生活とは雲泥の差である。
 太平山の周辺にも縄文時代の遺跡は数多い。私が住んでいる秋田市の高梨台にも縄文時代中期の遺跡がある。日本列島でも北方にある秋田は採集狩猟には適していなかったと思われがちだが専門家によると、縄文晩期には人口の半分が東北地方に集まっていたと言われる。他地域の酷暑、台風、渇水は、雪よりもずっと暮らしのマイナス要因に作用したのかもしれない。
 なによりも人を引き付けたのは落葉広葉樹林の恵みだったのではないだろうか。人々は太平山に足しげく入山した。食用となる木の実、きのこ、山菜、動物、魚、薪炭や住居、衣服用の樹木、獣皮、それに薬草など、太平山には何でもそろっていた。
 やがて縄文時代が終わるBC300年頃、大陸から水稲稲作の技術が日本に伝わる。
 考えてみれば水稲稲作は一年中田にしばられる。一日3時間も働けば喰っていけた生活を楽しんでいた自由人たる縄文の人々には、抵抗もあったのではないだろうか。
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