29.  車社会と山歩き
 戦後、山登りを取り巻く環境は激変した。その最たるものが交通通信手段だ。
 登山口へのアプローチを鳥海山に例をとってみると、私が始めて鳥海山に登った1950年代後半、矢島口は矢島駅から、吹浦口は吹浦駅から歩いて登山口まで行くのが常識だった。これは夏冬変わらない。
 太平山の場合は、金山の滝口はバスで木曽石まで行き、そこから歩いた。皿見内口や野田口も、太平集落を走るバスで近くまで行きバス停からは歩くのが当たり前だった。自宅のあった今の官庁街である秋田市山王から自転車で登山口まで行ったこともある。旭又口は、秋田駅東口から出ていた営林署のトロッコに乗せてもらった。
 戦前、学校の太平山登山は市内の学校から歩いて登山口まで行った。
 敗戦前年の1944年、旭北小学校では学校を深夜出発し、6年生は奥岳、5年生は中岳、4年生は前岳まで、日帰り登山をしたという。登山口だけへ行くのに学校から往復40キロだ。信じられるだろうか。 
 毎年、正月の山日記には、まず行きたい山の麓へのアプローチ方法をメモするのが決まりだった。北アルプスでいえば、富山、松本、谷川岳へは土合など、そこまでの鉄道の距離数、急行名、運賃などを一覧表にした。山登りは登山口までのアプローチを調べることから始まった。
 それを変えたのが車社会の到来だ。1960年、私は阿仁合小学校に講師として赴任、翌年には米内沢中学校に任用された。このあたりは車など問題外だった。
 1963年、米内沢高校に移ったとき、初めてスバル360をマイカーとして使っている人が教員の中に1人いた。1965年、金足農高に移ったとき、マイカー族は10人ほどに増えていた。1966年、結婚を機に私も晴れてマイカー族になった。マイカー族になって山登りの機会は急増した。以来51年間、15台の車を乗り継いできた。走行距離は100万キロを越えたから地球25周分である。スピード違反は何度もしたが事故はゼロ。
 若いころはトヨタのパブリカという空冷の700ccに乗って、よく春の岩木山(1625m)にスキーに出かけた。真夜中に秋田を発ち、百沢口からスキーを担いで登り、頂上に着くと麓から一番鳥の鳴声が聞こえた。山を下りて、ゆっくり昼前には秋田に着いた。
 敗戦の1945年、私は小学校2年生。秋田に進駐してきた米軍のジープにずっとあこがれがあった。長じて山登りにのめり込み、マイカーブームになるとアプローチに便利なジープ型のトヨタのプラドに乗った。ところが思ったほどは使い勝手はよくなかった。ガスを喰うだけでなく、日本の林道のような狭い道では不便が多く、故障も多いので早々に手放してしまった。

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