2000年10月号 vol.23

仕事場よれよれ日記 No23

嘉永五年東北 No16
吉田松陰『東北遊日記』を読む

艶笑譚 No19
あきた夜這い物語

シャチョー’sコラム No23

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嘉永五年東北 No16
 吉田松陰『東北遊日記』を読む
織田 久

気象勃々、新たなる旅へ

 嘉永五年四月五日、松陰は江戸へ戻った。
 百四十日間、約五ヵ月の旅だった。
 七ケ宿街道戸沢の宿で江幡五郎と別れたのは三月二十四日で、その後、米沢、会津、田島、日光、足利、館林と足早に巡り、四月四日、関宿から夜舟で小利根(江戸川)を下ったのだった。
 奥川筋と呼ばれる北関東地方は利根川水系を利用した水運がさかんで、利根川本流は前橋、烏川は上州倉賀野(高崎)、鏑川は上州下仁田、渡良瀬川は野州猿田(足利)、思川・巴川は野州壬生、鬼怒川は野州阿久津(氏家町)まで舟で遡ることができた。流域には八十余の河岸があり、沿岸の村々からは年貢米、雑穀、生糸、薪炭、材木、干鰯などが江戸へ送りこまれ、江戸からは日用雑貨、衣料、塩などが運ばれたが、その往来の情景は葦荻のあいだを白鷺の群れがゆくようであったといわれる。奥川筋のひらた舟や高瀬舟は川船といっても長さが六十尺から七十尺もある二百石積み前後の帆前船で、世事と呼ぶ居室をもつものもすくなくない。関宿からは乗客専門の乗合船や香取、鹿島への参詣客専門の貸切船も発着した。松陰たちが乗ったのもそうした乗合夜舟だったと思われる。流れは下り、乗ってしまえば否応なく朝には江戸へ着いてしまう。
 松陰たちの旅は終ろうとしていた。旅はなぜか終わりがちかづくにつれ、もの憂いかなしみつつまれがちである。関宿の茶店で夜舟を待つあいだ黙しがちな二人だったが、宮部が一詩を示し、これにたいし松陰も一詩を以て答えた。
  
   積雪又残花  積雪また残花
   與君徒然還  君と徒然にして還る
   独羨吾廬子  独り羨む吾廬子
   已在英雄間  已に英雄の間に在らん

 雪を踏んででかけた君と僕だが、いまは花も了りなすことなく還ろうとする。羨ましいのは五郎(吾廬子)だよ、すでに英雄だもなあ云々。士道にしたがって仇を討つという輪郭鮮明な五郎の行為に比して、これから松陰が向きあわねばならぬのは、彼の亡命にたいして藩当局がくだすであろう処分をふくめ、世事に雁字搦めにされた輪郭さだかならぬ未来そのものである。処分のいかんによって松陰のゆく道は大きく変わってしまうだろう。<流落何ぞ辞するに足らんや>と覚悟したうえの亡命だったとはいえ、気にならないはずがなかった。黄昏のあわいひかりにつつまれながら、松陰すこしばかり憂欝な気分で舟に乗りこんだにちがいない。
 <風力甚だ勁く、且つ眠り且つ醒める、五日の巳時を以て達す>。
 浅い眠りのうちに夜が明け、舟が江戸橋の下に着いたのは午前十時過ぎである。
 亡命者の松陰は桜田の藩邸には戻れない。
 桶町河岸の鳥山新三郎の所へ身をよせることにした。松陰たちが梁山泊と呼んでいる鳥山の私塾にはいつも誰かしらごろごろしているのが常だが、この日は長州藩士で親友の土屋矢之助、恭平兄弟がきていた。
 <相共に劇談す>。
 あのときは大騒ぎだったぞ。土屋兄弟は松陰亡命直後の江戸藩邸内の様子を語ってきかせたにちがいない。来原良蔵が当役(江戸家老)と激しくやりあって国許へ帰されこと、宍道恒太、井上壮太郎、小倉健作が松陰の亡命を知りながら見逃した廉で謹慎申しつけられたこと、しかし、松陰が江戸へ戻ったことを藩庁が知ったとしてもあらためて討手を出すような事態にはならんだろう、それにしても、これから、いったいどうするつもりだ云々。これにたいして松陰は帰藩する意志のないことを伝えたと思われる。日記には<将に処する所あらんとす>とあるだけだが、亡命した以上、その初志を貫く以外に身の処しようがあるとは思えない。
 翌日、梁山泊に長州藩の人間がやってきた。
 <藩人来り、懇ろに邸に帰らんことを勧む>。
 藩人とあるだけで、姓名をふくめどういう立場の人間か不明だが、おそらく土屋兄弟から松陰の帰府をきいて、しかるべき筋の内命をうけて説得にやってきたのだろう。松陰は帰藩を断った。しかし、男は言葉を重ねてこういった。
 「藩はあなたの脱藩をそう重く咎めないと思いますよ。なぜなら藩は遊歴そのものには許可を下してるわけで、問題は過所手形をもたずにでかけたことだけなんですから。しかも遊歴期間は十ヵ月なのに、あなたは五ヵ月たらずで戻ってきた。いますぐ帰藩して罪に服する姿勢をみせれば、重役たちだって重罪に処するわけにはいかんでしょう。そのうえで存分に学問したいというあなたの志を述べられれば、江戸留学もひきつづき許されるんじゃないでしょうか。すみやかに帰藩すべきじゃないかなあ」。
 居合わせた宮部鼎蔵も、そうすべきじゃないかという。宮部の場合、松陰の亡命が自分との約束を守るために行なわれたという思いがあるから、藩人のいうことは至極もっともであるし、帰藩できるものならぜひそうしてもらいたいと口添えする。松陰にしても脱藩することが目的ではないから、謹慎程度で江戸留学がひきつづき許されるなら意地をはって帰藩を拒む理由はなにもない。
 桜田の藩邸に戻ったのは十日である。ところがである。
 <居ること数日、帰国の命下る>。
 萩へ戻り裁きの沙汰を待て、というのである。
 処分はごく軽く、江戸留学も継続可能だろうという空気はもっぱら藩邸のなかでも濃厚だったから、この命令は文字どおり青天の霹靂というに等しかった。松陰はやや生々しい語句を使ってこう書いている。
 <ここに於いて愕然として初めて売られしを覚りぬ>。
 誰に売られたというのか。梁山泊に説得にきた藩人某あるいはその背後に糸をひく重役を指しているのかは不明だが、<売られる>とは松陰らしくもない慎みのない表現だと私には思われる。よほどつよい衝撃をうけたにちがいない。しかし、脱藩は本来重罪である。松陰はその点を軽く考えていたふしがないではない。九歳にして家学教授見習として明倫館に登り、十一歳の時に御前で『武教全書』を講じ十九歳で師範となった松陰を藩主慶親は寵愛(というのは大げさにしても)嘱目してたびたび意見書の提出を命じ、そのつど感賞の言葉を下したりしている。松陰のなかに、どこかそういう藩主の気持ちに甘える気分がなかったとはいえまい。しかし、ことここに至っては命令に従うほかはない。
 話をきいた友人たちが松陰の小屋へ集まってきた。
 <皆、憮然として相弔す>。
 慰める言葉もないといった感じだったのだろう。そのうちのひとりがいった。
 「おれは貴兄の性格を知ってるから敢えていうが、逃げたけりゃ逃げてもいいが切腹だけはするな。切腹はいかんぞ」。
 じつは皆そのことを心配していたのである。
 <客あり我れを戒む、語諄々>。
 私は死なない、と松陰は答えた。
 <匹夫匹婦すら尚お能く引決す。大丈夫は誠に死を重んず。知、人に売られしを知る能わず、売らるるに至りて又苟も免れんことを求むるは、益々その拙なるを見る>。
 市井の男女すら責任をとって死を選ぶ。武士はなおさら死を重んずるものだ。ただ無念なのは自分の知の能力が足らず、人に売られたことを知らなかったことである。だから途中で逃げたり自決したりしたら自分の不明を天下にさらすようなものではないか。そんなことはしない。<且つ>と松陰は語をついでいる。
 <吾が計数々蹶けり、而して志は則ち益々壮なり。志壮ならば安んぞ往くとして学を成 すべからざらんや>。
 これまで数々の計画をたて、しばしば躓いてきた。しかし、私の志はますます壮んである。志さえ壮んなら、どんな運命が待ち構えていようと学をなすのになんの問題があろうか。
 諸君、心配は御無用だ。
 四月十八日、足軽二人に護送されて松陰は江戸を去った。
 萩に到着したのは五月十二日である。
 実家の杉家に謹慎して松陰はひたすら藩庁の裁定を待つことになったが、その間の心情を宮部鼎蔵へつぎのように書き送っている。
 <僕一室に幽囚せられ、書を読み志を養う。暇あれば則ち剣を抜いて跳舞し、日として廃するなし。気象勃々磊々、向に奥越を跋渉せしの時に比べ更に長ずること数等なるを覚ゆ。読書は特に知識を長ずるのみならず、又以て気象を発すべし、窃かに自ら悦ぶ>。
 この青年は窮地逆境につよい。というよりそうであればあるほど気力充実、闘志満々となる性格なのだろうか。友人に心配させまいとする心遣いがあるにもせよ、松陰は元気だった。もっともいっぽうで<僕幸いにして死を免れ云々>とも書いているように、最悪の結果も覚悟はしていたのである。
 裁定が下りたのはようやく十二月八日になってからである。
 士籍剥脱、家禄没収。
 予想外に重い刑罰である。
 裁定に時間がかかったのは、あくまで藩の綱紀を厳正に遵守しようとする藩重役と、もうすこし手心を加えてもいいのでないかとする藩主慶親の意見調整に手間どったためかもしれない。すくなくとも、慶親には松陰をなんらかのかたちで長州藩の人間として止めておきたいという気持ちがあったらしく、士籍剥脱といいながら、実父杉百合之助の<育>とせよという内示を示した。<育>というのはたぶん長州藩独特の制度(というより便法というべきだろうが)で、この場合は実父百合之助のかかり人(居候)あるいは傭人になることを意味しており、禄は支給されないものの陪臣として(間接的に)長州藩に仕える形になる。だから士籍はなくとも場合に応じて長州藩士を名乗ることもできる。詳しいことは分からぬが、どうもそういう仕掛けであったらしい。
 さらに好運だったのは藩主慶親からは父百合之助にたいして松陰の十年間の諸国遊学を願い出るようにという内々の指示があったことである。つまり十年間の遊学を許すという内諾がしめされたのである。山鹿流兵学師範として代々つづいてきた吉田の家を潰してしまったこと、父や兄に片身の狭い思いをさせることになってしまったことにはげしい自責の念はあるにせよ、この裁定は松陰にとってこれ以上はないという望外の結果だった。あえて亡命脱藩という過激な手段を選んで実行した東北漫遊の結果、松陰は結果的に自由を得たのである。
 謹慎中、斉藤新太郎に送った書簡のなかで、松陰は東北漫遊の旅を総括してつぎのように述べている。
 <人皆曰く、「学を博くして後遠遊す」と。僕は則ち遠遊して後に学を博くす。逆行順絶、敦れか得、敦れか失、未だ知るべからざるなり>。
 学問をしたのち旅にでるか、旅にでて学問するか、その得失は分からぬが、自分は後者の道を選ぶというのだ。長崎平戸の遊学で<発動の機は周遊の益なり>と自覚した松陰は、さらに東北漫遊によって<雪や浪や沙や野や亦以て気胆を張り才識を長ずるに足れり>と旅の効用をさらに具体的に実感したのみならず、おのれの学問が書斎のなかではなく行動のうちにあることを痛感したにちがいない。そしてその<遠遊>のための自由をえた。自由を得た松陰は回転する運動体としてやがて猛烈に加速しはじめるだろう。
 嘉永六年一月二十八日、松陰は諸国遊学のため萩を出立した。
 それはもうひとつの亡命、黒船に到る旅の始まりだった。