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仙台とっておき散歩道 No15 西大立目祥子 門前町「宮町」をそぞろ歩いて、 東照宮へ 老舗と看板建築の通り 仙台駅から北に向かった東北線が、北東方向へと急カ−ブするあたり−。ちょうど東六番丁小学校のある角からまっすぐ北に延びているのが、「宮町」である。 宮町の「宮」とは、通りの北端にある東照宮のことだ。そこは玉手崎とよばれた丘陵地で、葛西大崎一揆を鎮圧した徳川家康が休息した場所だったという。二代藩主忠宗が東照宮を造営したのは、承応三年(一六五四)のこと。宮町はその門前町として町割がなされた。 家並みもずっと低く道も狭かったその頃、森の中に鎮座する権現様は威厳をたたえて町を見下ろしていただろう。それから三百五十年。町並みはすっかり変わったけれど、長い道を歩きつめていくとやがて東照宮があらわれる、そんな町の 構造は同じだ。 ここ十年ほどの道路拡幅工事で西側の店舗はすべて新しく建て変わった。古くからの宮町らしさは東側に色濃い。 まず足を止めるのは、小田原長丁の角の立派な棟門のお屋敷だろう。安藤さんというお宅で、市内ただ一つの武家屋敷。安政年間の地図を広げてみたら、ちょうど同じ場所に“安藤玄治”とあって驚いた。残そうという意思をもって代々住み 継がれてきたのだろう。 その二、三軒先、亀甲に「憲」と白く染め抜いたのれんを掛ける「鈴憲味噌醤油醸造」。正確にはここが宮町一番地。創業した明治二十七年当時、裏には小田原田んぼといわれた 水田が広がっていたという。間口が狭く奥に深い町屋敷ならではの敷地に、百年以上経つ建物が建っている。 その先左手には、もう一軒の味噌屋さん「阿部幸商店」がある。いまは五階建ビルの一階だが、以前は宮町の歴史を黙って物語るような昭和初期の黒っぱい町屋にのれんを上げていた。その建物の棟瓦が、味噌の香りのただよう店内に飾られてある。創業元治元年。こちらは、亀甲に「谷風」印。 安藤家の北には、味わい深い看板建築が三軒並んでいる。クリーム色の壁と緑の窓枠がなかなかにおしゃれだ。南端の印刷屋さんをのぞくと、黒光りする高い天井の下では年賀状の印刷が始まっていた。昭和初期の建築という。 その先にはピカピカの自転車が並ぶ看板建築もあった。「大学屋」というこの店は、もと郵便局。大学屋は、昭和二十年代からヨーロッパから部品を輸入しオーダーメイドに応 えていた競技用自転車制作の草分けだという。ご主人は技術屋としてオリンピックにも行ったとか。 裏の家の奥さんの話によれば、郵便局の建物はお舅さんが向かいが銀行だから郵便局があれば町がにぎやかになる、と土地を貸して昭和十二年に建築になったものだという。 宮町の店を支えた遊郭のにぎわい 宮町の東裏には遊廓があったことを書いておく。 宮町の東、小田原に、現在の西公園北側、常盤丁にあった遊廓が移され新常盤丁となったのは明治二十七年のことだ。入り口だった北一番丁には大門がつくられ、二、三階建ての妓楼がずらり軒を連ねていたという。明治四十五年の地図では軍の施設や学校が赤く染められているのに対し、遊廓は青く塗られ三十近くの屋号が書き込まれている。一大観光地であったのだろう。実際、藩の保護を失って衰退していた宮町は遊廓によって息を吹き返す。 「うちのおばあさんは風呂敷に下駄をいっぱい包んで部屋をまわっていたの」と話してくれたのは、大瀧履物店の奥さんだ。座売りの形態を残した店は百年以上経つもので、昭和二十年代までは、職人をかかえて桐下駄づくりに追われたのだそうだ。昭和三十三年に廃止されるまで、遊郭のにぎわいは髪結屋、魚屋、味噌屋、乾物屋など、多くの商店をうるおした。その記憶をとどめる人が宮町にはまだ少なくない。 とはいえ、地元には、遊廓にはもう触れて欲しくないという感情があることも確かだ。日常的に物の売り買いがあっても、そこはやはり特別な場所だったのだと思う。いま、かつての新常盤丁にはマンションと事務所が立ち並び、あまり人気もなくがらんとしている。ここに遊廓があったことも資料の中だけのこととして語られていくのかもしれない。 さて、宮町の通りに戻ろう。北二番丁から北三番丁へ、四番、五番と北に上がって北六番丁まで。長い門前町には何本も横道が交差するが、両側はずっと商店街だ。 自家製サツマ揚げが人気という北二番丁角の「魚善」。ずんだ餅やずんだおはぎを目当てに遠くからもお客さんが訪れるという北四番丁の「遠藤餅店」。北六番丁近くでは、手打ち更科が売りの「清水屋」、各地の銘酒を取りそろえる「南部屋」。気になる店がいろいろあった。勿論、老舗はほかにもたくさんある。あちこちのぞいきながらそぞろ歩きがいい。 おばあさんたちの宮町 ゆっくり歩けば家並みの裏手に大木があり板倉が残り、まだのんびりとした暮らしの風景も目に入ってくる。 「大学屋」の裏の家には、手押しポンプの井戸があった。奥さんにたずねると「昭和三十五年までは、この井戸一本でうちと長屋四軒が飲み水とお風呂と洗濯をまかなったの」という。さぞにぎやかな井戸端会議だったろう。そこへ野菜を積んだリヤカーを引いて農家のおばさんらしき人がやってきた。なじみのお客さんをまわる野菜売りだ。市の北東部、岩切からもう四十年も通い続けているという。リヤカー脇で親しそうに世間話する笑顔を見ながら私もピーマン一袋を買った。「このへん、まだご近所同士でお茶飲みします?」とたずねたら「専門!」と答えて、二人は大笑い。 近くには、古くはあるが見上げるような日本家屋があった。奥の着物姿のおばあさんに声をかけたら、こたつからわざわざ出て玄関先にぺたりと座り昔語りをしてくれた。二十年前までは材木屋だったという。道理で木材に贅を尽くした建物なのだ。商売をしているわけでもないのに、こんなふうに心開いてくれる方もめずらしい。しまいには“師範学校”の方ですか、とたずねられ、今度は私が大笑い。 お向かいの「黒田タネ店」でも、店を切り盛りするのは八十三歳のおばあさんだった。店にはいつも椅子を二つ用意してお客さんとおしゃべりするのだという。五十年前に商売を始めた頃は、宮町にも農家が多く近くに種屋ができて助かるとよろこばれたらしい。いまはマンション住人相手に花の苗やプランターを商う。 表からは見えにくいけれど、どんと腰の座ったおばあさんたちが変わらぬ人情を育んでいた。 東照宮の石段へ 北六番丁までくると、ビルの合間に、東照宮の森と銅葺きの門がぐんと間近に見え始める。 安政年間の地図では、東照宮は門前の五つの寺に堅固に守られいるが、いまは「仙岳院」「延寿院」「清浄光院」が残るのみ。ただ消えた「宝蔵院」の名は、梅田川にかかる橋の 名に名残をとどめている。 「清浄光院」は「万日堂」ので親しまれている。榴ヶ岡の願行寺、東九番丁の常念寺とともに「大回向寺オエゴデラ」(オエゴデラ)とよばれ、三年交代で春に法要を行う。何でも一度供養すれば千日の功徳があるという。私も今年初めていってみたが、境内には角柱が立てられ、そこから白い綱が本堂の中に伸びていた。どうしたらよいのかとまどう私を尻目に、腰の曲がったおばあさんが綱につたって本堂の前まで歩き手を合わせた。綱は阿弥陀様の手に結ばれ「縁の綱」というのだそうだ。昔は参詣人があふれ、戦前はふるまわれる粥を目当てに乞食が集まったという。仙台の町の片隅で生きた人々が、最も親しんだ寺の一つではなかったのだろうか。 東照宮の石段までは、もう少し。大正十一年から昭和三十五年まで仙台と仙北地方を結び“軽便っこ”と親しまれた「仙台軌道」跡の細く曲がりくねった道を越え、梅田川を渡 り、仙山線の踏切を越える。 梅田川ほとりの延寿院ではお坊さんが舞い落ちる落ち葉をはき集めていた。お坊さんの横顔はすがすがしく、境内は時間を止めたかのようにひっそりしていた。 仙岳院の前を過ぎると、やがて大きな石鳥居の向こうにゆるやかに延びる石段が見えてくる。目を引くのは両側に連なる石灯籠だろう。約三十基。ひとつひとつに家臣の名が刻まれた灯籠は、藩主へひいては徳川家への忠義心を表したものだったにちがいない。石段を上れば重厚な随身門、さらに上に拝殿と本殿がある。平日でも、ぽつりぽつりとお参りの人が絶えない。 戦前の東照宮を知る人は、決まって鎮守の森は深く怖いほどだったという。その森閑とした雰囲気は失われてしまったけれど、杉や松の茂る境内を歩くのもいい。裏手にはかつて営林署だった時代に植林されたトチノキの育つ公園もある。ちなみに杜の都仙台のシンボルとなった青葉通りのケヤキは、この辺りから移植したものである。 帰り道、随身門の前から宮町を見下ろして欲しい。参詣者を東照宮へと導く門前町、それは想像以上にまっすぐに延びていて、長い。宮町町衆が支えてきた三百年来の一筋の道である。
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