Vol.817 16年7月30日 週刊あんばい一本勝負 No.809


ソーメン・花火・津軽塗

7月23日 今日は森吉山。後輩Sさんと2人で「こめつが山荘」スタート。30度を超す天気でヘロヘロ。登り3時間20分、下り2時間30分の、まさに夏の山行。水3リットルを消費した。登り始めて身体が重いことに気付いた。万全の準備をしていったつもりだが、下りの途中で原因に気が付いた。毎朝山行の時に必ず服んでいるアミノバイタルというアミノ酸サプリを飲み忘れたのだ。案の定、アミノバイタルを服んだら、あら不思議、身体がしゃっきとしてエネルギーがあふれ出した。サプリ信仰などさらさらないが、この事実には自分でもショック。なんとはなしに服用していたサプリにこんな効果があるなんて……。

7月24日 山行からの帰りフラフラ近所を歩いていると自転車の小学生に「オジサン、これからこばと幼稚園の花火があがるから見てね」と唐突に話しかけられた。すぐに反応して「わかった、どっちの方向?」ときくと熱心に教えてくれた。そのままコンビニに入ると花火が始まった。コンビニ前で大学生たちが「しょぼい花火だなあ」と見入っていた。「あれは地元広面で人気のある保育園が独自で打ち上ている花火。予算もないけど毎年一生懸命子供たちのためにやっているんだよ」と説明すると、「そうっすかぁ、いや、すごいっすね。感動です」と逆に花火に拍手してくれた。実はうちの息子もこのこばと保育園の卒園者、数発で終わる、小さな花火だが、いい花火だ。

7月25日 昨夜は一人夕食。ソーメンをつくって3束食ってしまった。久々のソーメンはおいしかった。前日は出先でウナギも食べた。そば定食にセットで付いてきた安物だがそこそこいけた。ソーメンもウナギも「たらふく」食べるものではない。と書いて「たらふく」って何だ? 宮本常一の本に、男鹿や能代周辺の海沿いの人々は、米凶作が続くとタラを煮て骨を抜き身をグシャグシャに混ぜ、ご飯のようにして食べたそうだ。ここから「たら腹」という言葉が生まれたのだそうだ。すごい話だけど本当かしら。宮本の本に秋田の地名が出てくるのは珍しいが、菅江真澄の足跡に触れたテーマだったためだ。

7月26日 もう10数年前になるが津軽書房の高橋彰一さんが亡くなくなった。形見分けで、まだ履いていない津軽塗のり下駄をいただいた。ずっと保管庫にしまっていたのだが、そろそろ自分もいい年になったし(高橋さんが亡くなった70歳に近づいてきた)履いてみようと思い立った。早速市内の履物屋さんにもちこみ鼻緒をつけてもらうことにした。履物屋の主人は下駄をみたとたん顔色が変わった。奥さんまで呼びよせて2人で「見事な津軽塗……」と言葉少なになった。えっ、そんなにいいものだったの。鼻緒をつけていただき(3千円)、奥さんが言うように「履かないで玄関に飾って置いたほうが」という指示に従うことにした。そうか、この下駄は高橋さんがいつか履いてやろうと大事にしていた高級品だったんだ。大切にしなくては。

7月27日 宅配便の人と言い争いに。2階で一人留守番をしていたら玄関ドアが開いてゴソゴソ。そのうち静かになった。何だろうと降りてみると「不在票」が置かれていた。いつものヤマトや佐川なら、いなければとりあえず荷物を置いていくか隣の自宅に配達してくれる。なじみのない宅配屋さんのしわざだ。すぐに電話をして再配達してもらった。「2階にいるのに、なぜ声をかけてくれない」と怒ると、「いや、ちゃんと大声で呼びました」と譲らない。なんとなくこちらが折れたのだが、冷静になってみると「オレの耳が悪くなっているのかも……」と反省モード。もう老人なのだ。若いつもりで失敗を人のせいにするのは老害そのもの。「自分は正しい」という不自由な視点は卒業したつもりたが、まだまだ頑固に自分の中に大きな地位を占めていた。

7月28日 落語家が噺の途中でスルリと羽織を脱ぐ。高座の定番だ。いかにスムースに羽織を脱ぐかを競っているようにも見えるが、なぜ必ず脱ぐものを着ているのか。脱ぐことに何か「粋」や「美学」が隠されているのか。ずっと疑問だったのだが宮本常一の本にこんなことが書いてあった。江戸期、庶民が羽織を着ることはめったなことにはなく、それは武士も同様だった。そんな風習のある時代に「落語家ごとき」が羽織をつけているのは傲岸不遜。そこで落語家は気を遣い、噺の途中でさりげなく脱いでしまう、というのだ。宮本はここまではっきりは書いていないのだが、要約するとまあこんなことらしい。羽織というのは武士といえどもめったなことには着用しないものだった、ということだけはよくわかった。

7月29日 事務所の保管庫、遊びの個人倉庫、本類整理に続いて衣類の大処分にとりかかった。昔から「物持ち」はいいほうだ。特に衣類は一度買うと捨てられない。中学時代にお袋が編んでくれたセーターを今も持っているほど。ユニクロの下着も10年単位ではき続ける。だから衣類はたまる一方だ。で、自分の中で一つのルールを作って処分することにした。2年間着なかったものは無条件で捨てる。頭の中を空っぽにして、衣類ケース単位で生ごみを捨てるように45リットルのゴミ袋に放り込む。7つの袋が寝床の横に積みあがった。月曜日のごみ収集日が待ち遠しい。まだ「スッキリ」とまでは割り切れぬが、まあ時間が立てば心の中にそよ風が吹き抜けるようになるだろう。
(あ)

No.809

ペリー来航
(中公新書)
西川武臣

サブタイトルは「日本・琉球をゆるがした412日間」。このサブが本書の要諦だ。アメリカの東インド艦隊が1853年5月に那覇沖にあらわれ、その2か月後には浦賀沖にまで侵入した。この翌年に和親条約の締結をみるのだが、412日とはこの期間を指している。黒船を眼前でみた庶民の驚き、乗組員の発砲事件や無断上陸、電信機実験など、初めて見る西洋人と西洋文明への驚天動地の日本人の慌てふためきぶりを、当時の瓦版や日記などを博捜し、描いている。最初に日本に来航した外国人はロシア人だ。次はイギリス。幕府はアヘン戦争で世界の中心とばかり信じていた清国がイギリスの簡単に打ち負かされたことを知り、西洋列強の強大さを肌で感じていた。庶民もロシアやイギリスに対する脅威は感じていたのだが、いきなり目の前に現れたのはなんとアメリカの艦隊を率いるペリーだった。アジアの各地にイギリスが港湾(軍港)を手に入れ覇権を敷きつつあることに危機を感じたアメリカが、「いまのところ琉球や日本にはイギリスの手が及んでいない」ことに目をつけた結果だ。ようはイギリスへの対抗策として「ペリー来航」が日本のエポックになってしまったのだ。日米和親条約後、日本の国際化は急速に進むが、以後、不思議なことにアメリカの影は急激に薄れてしまう。アメリカの国内事情(南北戦争など)で、開国はさせたものの、本国そのものが日本どころではなくなったためである。このへんの機微も微細に描かれている。

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