Vol.831 16年11月12日 週刊あんばい一本勝負 No.823


ようやくいつもの日常が戻ってきた

11月5日 マドリッド在住の画家・堀越千秋さんが亡くなった。同い年の67歳。ANAの機内誌「翼の王国」の表紙絵を描いていた人、と言えばわかる人がいるかもしれない。この人の絵を使った「武満徹全集」(小学館)はこれまで見た装丁のなかで最も感動したものの一つ。その本の編集者Oさんと個展にも出かけたこともあった。その堀越さんの追悼画集がOさんの手で出ることになった。600頁に及ぶ大型本なので資金はクラウド・ファンディングで調達するという。サイトが公開されたので資金調達に協力した。こんな形の不特定多数によるネットでの資金調達がこれからは出版の一つの「方法」になっていくのかもしれない。でサイト公開わずか2日で100万円を突破。目標は800万だが、この勢いなら数日中に達成まちがいない。

11月6日 待ちに待った2か月ぶりの山行はお気に入りの八塩山(矢島登山口)。前夜は激しい雨で中止も予想されたが、少人数なので決行。登っているうちに青空も広がり、まだ赤い森の中を心ゆくまで味わってきた。登山後の温泉も気持ちいい。久しぶりにビールも飲んだ。汗をかかないと温泉もビールも飲んではいけない、というわが鉄則を再認識した次第。昨夜はよく寝られなかったから、今夜はぐっすり「溜寝」もできそうだ。左ひざは完治といっていいようだ。今年は山の紅葉を見ないまま年を越しそうな気配もあったが、これで満足。しかし、人の入らない山はいたるところでものすごい獣臭。怖かったが、風や落ち葉や木々の息吹の心地よさのほうが勝った。身体の中の淀んだ空気が一掃された。

11月7日 山行から一夜明けた。昨夜は熟睡、目覚めもさわやか。身体の中に溜まっていたモヤモヤが新しい空気に入れ替わった。それにしても山は不思議。前夜にあれだけ雨が降ったにもかかわらず、落ち葉がカサカサ音を立てるほど山は乾いていた。どんだけ吸収率がいいんだオマエ。登山客は誰もいなかった。そのせいもあるのか、いたるところに獣臭さが立ち込めていて、これは怖かった。クマではないと思うが小動物が枯れ葉の中をはしゃぎまわっている光景が目に浮かんだ。クマは確かに怖い。でも鈴や笛でこちらの存在を事前に教えれば逃げてくれるはず。それとあの体臭というか獣臭さで事前に察知できる。クマの通ったあとの臭いはとにかくすさまじい。いきなり馬小屋か動物園に放り込まれたような感じだ。ひとりでフラリと秋の山を楽しみたいともおもうが、もう無理。クマのことを知れば知るほどひとりの山行は無謀だ。早く冬眠してほしい。

11月8日 秋の味覚と言えば県南出身なので「芋の子汁」だ。まちがっても「きりたんぽ鍋」ではない。山形の有名な「芋煮会」は牛肉だが、うちは鶏肉だった。秋田市内出身のカミさんは豚でつくる。豚でも鶏でもなんでもOKだ。というか山形の牛のほうが実は特殊なのだ。起源は北前船の紅花輸出による好景気、儲かったので贅沢をしてみた、という理由だ。その証拠に「芋の子」を秋に煮て食べる食習は日本全国にある。古代からコメの救荒作物としてつくった芋の子を、コメの収穫とともに食べて放出したのが、この鍋の起源だ。昔このことを調べていて、そうした事実を突き止めてから、肉は何でもいい、問題は芋の子だ、とわかった。いまでもこの季節になると九州や北海道でも「芋の子」をつかった鍋が食卓をにぎわしている。

11月9日 今読んでいる本は佐藤弘夫『死者の花嫁』と堀越千秋『絵に描けないスペイン』の2冊。どちらも面白い。「死者」のほうは文字通り墓や先祖、幽霊といった死と埋葬に関わる日本人の「死生観」の歴史的変遷を描いた労作。「スペイン」は10年以上前に出た本だが、著者が先月亡くなったばかりなので追悼の意味もあって読み始めた。2冊とも版元が幻戯書房。この版元の本を読む機会が最近めっきり増えた。幻戯書房は角川書店創業者である角川源義の長女である辺見じゅんさんが創立した会社。出版社名はお父さんの名前がとったものだ。辺見さんは5年ほど前亡くなったが出版社はその後も順調に良書を世に送り出している。

11月10日 米の大統領選や東京都の築地移転問題など、世の人がテレビにくぎ付けになるような大きな事件やイベントがあると、本の注文電話はピタリと止まる。吹けば飛ぶような零細地方出版社の商売と世間の大事件が、どこでどうつながっているのか、よくわからない。その昔、社会的事件と小出版社の商売には何の関連もなかった。人類が宇宙旅行をしようがイラク戦争が起きようが、静かに絶え間なく本は売れた。うがった見方かもしれないが、「すぐ大量に売れる本がいい本」という、20世紀末に変容し始めた資本主義の過激な風潮と、これは無縁ではないのかもしれない。1点のベストセラーにすべての人が群がることを「ハリー・ポッター現象」という。本の多様性や価値が失われ、さまざまなメディアが織り成す網の目の中心に本がどっしろと位置していた「黄金時代」が消えた。「読書」や「本」の社会的な意味が変わりつつあるのだ。

11月11日 小さなころからスポーツは得意だった。生まれてすぐに股関節脱臼でギブスをはめていたため走るのは遅かった。野球も卓球もバレーも水泳もクラスでトップクラスだったが、足が遅いというのは「致命的な欠陥」といわれた。中学高校の部活では足が遅くても問題にされない柔道部に入った。ここで軍隊のまねごとのようなしごきや理不尽な暴力を経験し、すっかりスポーツ嫌いになった。体育教師は馬鹿の一つ覚えで「根性」を叫ぶばかりで暴力を礼賛した。スポーツを心から楽しめるようになったのは30代後半から。近所のジムに通いエアロビやトライアスロン、カヌーに夢中になり、いまも山登り三昧の日々だ。その当時、体育教師たちは「練習中に水を飲むな」と指導した。あれはどうやら旧陸軍の風潮だったようだ。今日の新聞に出ていた。戦地では不用意に水を飲むのは危険だった。そこで水を飲まない訓練を兵士たちにさせた。その兵士たちが体育教師になり同じ指導を子供たちに強いた。なるほど、長年の謎がひとつとけた。
(あ)

No.823

芸能人寛容論
(青弓社)
武田砂鉄

 少し前の著者の話題作『紋切型社会』(朝日出版)は途中で読むのをやめてしまった。面白さに行きつく前に前置きが長くて「飽きて」しまった。なのに懲りもせずまた本書を手に取ったのは、「ナンシー関の再来」というキャッチ―な書評を雑誌で見かけたからだ。テレビの中の芸能人を斬る評論は珍しくはない。ほとんどが評論に見せかけた悪口だが、最近は名誉棄損や報復、ネット炎上などがあり、いかに芸能人といえども真正面からあげつらうのは「勇気ある行為」になりつつある。本書を読んで違和感があったのは取り上げられている芸能人の小物感だ。こんな連中のこと書かれても……というのが高齢読者(私)の正直な感想だ。さらにその小物たちを真正面からぶった切ることも、していないのだ。なんとなくうやむやに周辺に煙幕を張りこめ、グチグチといじくっている。親しい友人たちと酒呑みながら芸能人の品定めをしている程度の話といっていいのかもしれない。ナンシー関のすごさは、自分の身を切って言葉を紡ぎだしている覚悟があったことだ。この著者にはその覚悟は感じられない。例えば、本書の書名が「二流芸能人寛容論」というものだったら、たぶんこの本の名声は高まったかもしれない。「二流」と言い切る覚悟がないのだ。

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