Vol.1077 21年8月21日 週刊あんばい一本勝負 No.1069

猛暑とコロナ過を言い訳にダラダラ

8月14日 猛暑は抜けたがダラダラは一向に改まらない。HP用や新聞連載ものも「暑さ」を理由に中断したまま。スランプというやつのせいにしてしまうしかないが、悪いことに夜はプロ野球も始まった。忙しく仕事をしていると、こうした「ダラダラ」とは無縁だが、ヒマな時の時間のうっちゃり方がヘタなのは昔から。泰然と時間をやり過ごす訓練をしてこなかったせいだ。

8月15日 猛暑とコロナを理由にした「サボり」から早く卒業したい。昨日はがっしりと机にしがみついてみた。結果はどうにか2本の原稿を書き上げた。自分をほめてやりたい。猛暑が去れば自然と身体も活動的になっていくはずだ。ボンクラ頭もクリアーになっていく。自分に残された時間には限度がある。解決策はただ一つ、身辺が外的要因で「多忙」になれば、自然にシャカリキで前向きの気分に引き戻される。が、そんな状況はしばらくない。

8月16日 今日から仕事体制だ。ちょっと歯の調子がよくないので、午後からは歯医者。これはもう持病のようなもので病院通いも苦ではない。昨日見た邦画『新聞記者』はよくできた作品だった。主役の女性記者・吉岡のキャラクターがすばらしい。どんな女優にも似ていない、はじめてみるタイプの役者で、彼女に一番感動した。エンドロールで「シム・ウンギョン」とい外国人女優だったことを初めて知った。そうか、あの深い陰影はチャラチャラした日本の女優では無理だ。

8月17日 鍛冶真起さんが亡くなった。69歳なので年下だ。年下の友人の死はずっしりとこたえる。鍛冶さんはパズル制作会社「ニコリ」の創業者で世界的に大ヒットした「数独」の名付け親である。何度か一緒にお酒を呑んだが、何もかも自分とは正反対のキャラクターで、その「違い」がおたがい面白く、交友が続いた。私が競馬をしたことがない、といったら翌週、大井競馬場に連れて行ってくれた。調子に乗って、銀座の高級クラブも行きたい、と甘えたら、それもすぐに実現してくれた。一緒にニューヨークの国際ブックフェア―にも行ったし(彼はラスベガスで途中下車、会場には最終日にやってきた)、秋田新幹線が開通した折は、その記念パズルをつくるため来秋。2泊3日で秋田を案内した。ちょうど横手市に競馬のサテライトできたばかりで、彼は新幹線よりもサテライトが気に入り、やはり途中下車して入り浸った。こちらもパズルには興味ない。だから2人で仕事の話をすることはなかった。それも良かったのかもしれない。あまりに正反対の性格同士なので、理解不能なことも多かったが、自分の知らない世界をたくさん教えてもらったのは間違いない。ありがとう鍛冶さん。合掌。

8月18日 散歩の途中、自転車やスクーターで背中に大きなバックを背負った配達員が目に付くようになった。フードデリバリーの若者たちだ。バックには「ウオルト」や「ウーバーイーツ」の文字が読み取れる。ネットで調べてみると、取り扱いレストランはほとんどが全国チェーンのファストフード店ばかりで、まるで魅力のない店ばかり。牛玄亭や横田屋といった秋田のお店も散見できるが、これは配達料ってどうなってるのかな。試しに一度使ってみようと野次馬ジジイは思っているのだが、うちは毎月1回、家族で「みなみ」での会食が決まりで、もうそれで十分かも。

8月19日 また元の猛暑に逆戻り。調べたいことがあって40代の時に書いた文章を読んでいたら、真冬に半そで半パンで寝起きしている様子が自慢げに書かれていた。寒さにはめっぽう強かったのだが、50代になると一挙に寒暖どちらも苦手になってしまった。40年前、事務所を新築した。2階はもろに西日が当たり仕事には使えない、とわかった時は落胆いた。窓に何重もの遮熱処理をしてブラインドを下げ、今はどうにかシャチョー室として使い続けている。でも今年の夏はしんどい。

8月20日 今週末、岩手県雫石から秋田駒ケ岳に登る予定だったが、どうやら雨の予報。そこで急きょ、今日に変更し、駒に登ることにした。朝5時起きは辛く寝不足だったが天気はピーカン、風もあり、これ以上ない登山日和。登山口の国見温泉まで1時間40分ほどで到着(運転手は私)、週日の駐車場はガラガラ。登山客がほとんどいない国見側登山口というのは新鮮だ。気持ちよく登り始めたが、体調が今ひとつ。身体が重く足が前に出ない。汗が噴き出し、やたらと喉が渇く。考えてみれば7月11日の東光山以来、6週間ぶりの山。横長根まで青息吐息、かろうじてムーミン谷まで持ちこたえたが、そこでランチ、あとは阿弥陀池まで登らず、下山を選んだ。もう一回、きちっと山に登れる身体に作り直さなければ。
(あ)

No.1069

ヤンキー化する日本
(角川ワンテーマ21)
斎藤環

 あの名作『世界が土曜の夜の夢なら』の著者が同じテーマを6人の識者たちと語り合った対談集だ。巻頭の著者による「なぜ今、ヤンキーを語るのか」がやはりダントツに面白い。対談はちょっと凡庸なのが残念。ヤンキーとはバッドセンスな装いや美学、気合いや絆といった理念の下、家族や仲間を大切にするという一種の倫理観とがアマルガム的に融合したひとつの文化をさす。著者は、2012年暮れに第2次安倍内閣が成立してから、日本人のヤンキー化に一層拍車がかかったという。「安倍総理をヒトラーに例える人もいるようだが、、これにはちょっと違和感がある。彼の観ている幻想は、ヒトラーほど巨大でも残酷なものではない。彼には適切な歴史認識もなければ、まっとうな国際感覚もない。美学はあっても理想はない。気合はあってもビジョンはない。つまり幸運にも、この人物にはファシズムは到底無理なのだ。嗤うなら彼の独裁ぶりではなく、彼の矮小さこそを嗤うべきなのだ、と思う」というのが本書の核心といっていいだろう。片山杜秀によれば、こうした精神主義のルーツは日露戦争にあるのだそうだ。そして現代のヤンキー美学は特攻服やソーラン節のような様式性を経て、フェイクの伝統主義=ナショナリズムに帰着する。

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