Vol.794 16年2月20日 週刊あんばい一本勝負 No.786


雪山・はかま満緒・黒人奴隷

2月13日 電話の何割かは「著者の連絡先」を尋ねるものだ。10本あれば3本くらいの確率だから立派な3割打者だ。これまで40年間で1000人以上の著者とかかわってきた。半数近くは物故したか関係が切れて連絡を取れない方々だ。そんな人たちに限って「問い合わせ」が多い。連絡が取れなくなったので版元を頼るのだろう。こちらが知りたいくらいだが、尋ねてくる側は「本まで出したのに著者の連絡先も知らないのですか?」と不信感を持つようだ。知っていても個人情報だから教えることはできない。郵便封書での問い合わせには応えるようにしている。その郵便物も「アンケート調査依頼」があいかわらず国の各省から送りつけられてくる。明らかに同じ住所リストを中間業者が使いまわしている。こんな仕事とは直接関係のないところで腹を立てることの多くなった。

2月14日 寒風山スノートレッキングの予定だったが雨で中止。寒風山はその名前の通り木がなく風の冷たい山。冬は初めてだが中止は妥当。中止が決まってから昨夜雨の中をカッパで(傘をささず)散歩。土砂降りや台風、大雪のなかを歩くのが趣味。カッパもしばらく出番がなかったので、雨に濡れて気持ちよさそうだった。特にズボンは山で付いた泥がきれいに落ち、息吹き返したよう。雪山を歩くとき一番汚い登山靴を履いていく。帰るころに靴は雪ですっかりクリーニングされている。合理主義者のようだが不精なだけ。山登りするようになって厚手のセーターを着なくなった。重ね着を山で学んだ。汗をかかなくなり風邪をひかなくなった。服を買わなくなったし、寒暖に敏感になった。山歩きの効用はまだまだあるが、いずれまた。

2月15日 休日に電車に乗って酒田や盛岡、仙台まで出かけることがある。電車の中で本を読むのが目的だ。だから目的の駅についても構内から外へ一歩も出ず帰ってくることもある。外出のたびにイライラするのが切符購入だ。スプーン並びで待つのだが、早く順番が来ないか、いつもイライラ。性格的欠陥だと自覚はしているのだが、何年たってもあのフォーク並びに慣れない。ダラダラと時間を食っている客を見ると敵意がわくし、代金を支払う段階で財布を探し始める人、発券後に質問をはじめる人、個人的なおしゃべりを始める人などに、腹が立ってイライラは募る。スーパーレジでも同じ。こんなせっかちな性癖を直したいのだが、いい方法はないものだろうか。

2月16日 毎日、寒暖の差が激しい。着るもので調整するしかない。最近はシャツに薄手のセーターが定番。暖冬のおかげだ。寒ければこれに厚手のジャケットを羽織る。ところが今日のような寒さだとジャケットを着てもスース―。暖房温度を上げればいいのだが、いつも同じ温度が体調のバロメーターだ。今冬は着ることがないと思っていた厚手の襟の高いセーターを引っ張り出した。さすがに暖かいが、着ぶくれ感ハンパない。一挙にデブになった気分だ。昨日、新刊ができてきた。これで仕事の山は越えた。

2月17日 一晩でだいぶ雪が積もった。雪かきは新入社員の役目。昔に比べると楽になったとはいうものの、雪への潜在的恐怖は骨がらみだ。65年以上「白い悪魔」と共存してきた。油断すると、とんでもない悪ふざけする性癖に気を許したわけではない。その昔、暖冬だと喜んでいたら4月にドカ雪に襲われたこともあった。10年前にはじめた山歩きで「雪の山歩き」の楽しさを知った。雪への敵意がめっきり減った。雪はアッタカイし、きれいで新鮮で上品だ。そんな風に思えるようになるから不思議だ。スノーシューを履いて山を歩くようになり人生観が変わった。

2月18日 新聞死亡欄を見てもいちいち驚くことがなくなった。「ああ〜、この人もいなくなったか」と嘆息するぐらい。いつ同じ立場に立ってもおかしくない年になったせいだろう。それでもノンフィクション作家・桐山秀樹氏の急死には少し驚いた。先週、週刊誌にそれらしき報が出たのでネット検索したが、死亡報道はなかった。今週に入ってネットでも報じられている。糖質ダイエットの旗振り役だったので、ネットではさぞ面白おかしく取り上げられているのかもと思ったのだが、ネット世界の感度もそう高くはなかった。今日の「はかま満緒」さんの死は個人的に大ショックだ。以前、NHKラジオ「日曜喫茶室」に出演させていただいた。大柄で高そうなジャケットを着て、ユーモラスで鷹揚とした受け答えが印象に残っている。意外に思われるかもしれないが「静かな人」というイメージが強い。池内紀さんや安野光雅さんとの洗練された会話に「大人の世界」を覗き見るようなコーフンを覚えたものだ。「かっこいい先輩」が消えていくのは、実に淋しい。

2月19日 偶然なのだが、国会議員の「黒人奴隷発言」の前日、DVDで『それでも夜は明ける』という黒人奴隷の映画を観た。意図して選んだものではなく映画ベストテンのような活字から無作為にリストアップしたものだ。19世紀アメリカで「自由黒人」だったヴァイオリニストが拉致され、別の州で12年間、奴隷として暮らした実話を基にした映画だ。まるで救いのない映画で、どこかにハッピーエンドがあるだろうと最後まで観たが、それは期待外れに終わった。この作者(主人公)は12年後に市民社会に復権するのだが、体験記を発表後、どのように生き、死んだのか誰も知らない、とエンドクレジットに出て映画は終わる。良心のあるアメリカ人(白人)が黒人に対して償い難い「負い目」を抱く背景が映画でよくわかった。あのナチスの残忍さ以上のことをアメリカ白人たちは黒人に対して行ったのだ。映画はその1点を執拗に訴えている。 映画から教わることは多い。
(あ)

No.786

駅伝マン
(早川書房)
アダーナン・フィン

 ガイジンが日本文化の不思議を訪ねるため、家族と一定期間来日し、長期取材する、というパターンは定着しつつあるようだ。そのテーマは「食」に関してのものが多かったが本書は「ランニング」である。著者はイギリスの『ガーディアン』誌の編集者兼フリーランスのジャーナリスト。日本語が全くしゃべれないのに京都に家族4人で半年間滞在し、箱根駅伝や実業団駅伝、比叡山の千日回峰行を体当たりで取材する。自らもランナーとして数々の日本国内の大会に出場しながら、日本独自のランニング文化を海外事情と比較しながらルポしたのが本書だ。駅伝がテーマになってはいるが、著者の関心は「なぜケニア人選手は強いのか」の一点にあるかのようだ。国民的なスポーツになっているマラソンや駅伝の国日本は、なぜケニア人選手に歯が立たないのか、という裏テーマの本でもあるのだ。結論は単純明快だ。特定の人種に遺伝的優位性はない、というのが現代科学の常識だ。日本人選手は若いころにハードなトレーニングで筋肉や腱を酷使し、多くの選手が成熟期に到達するころに逆に跳躍力を失ってしまう。駅伝への傾倒とアスファルトでの練習がその元凶だ、と著者は喝破する。ジュニア期にオーバー・トレーニングで無理やり記録を伸ばし、そこで記録は止まってしまう。伸びしろがなくなるのだ。自らの体験と科学的知見のバランスしながら日本のスポーツトレーニングの問題点をあぶりだしている。

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