Vol.845 17年2月18日 週刊あんばい一本勝負 No.837


豪雪・かゆみ・チョー多忙

2月11日 「打たれ弱い」タイプだ。今年に入って忙しい日々が続いている。毎日あれこれの心配や不安を抱えて仕事をしていると、身体のどこかに不調が出てしまう。身体に黄信号がともるのだ。それが赤になることはめったにないが、症状が長引けば、赤から一気に危険水域(入院)に突入する恐れもある。過去にそういうことが一度だけあった(30代中頃)。とにかく不安や心配が長期間にわたると危ない。現在、首回りの両肩のあたりがかゆい。帯状疱疹は「痛い」というのが相場だが、私の場合は「かゆい」。痛くならないから油断がある。病院に行かないし、ポリポリ掻いているうちに症状を忘れてしまう。そのうち忙しさも去り、不安や心配が消えると「かゆみ」も自然消滅。昔は運動のやりすぎでこの「かゆみ」が出た。毎日のようにスポーツジムに通ってエアロビクスに興じていたころだ。これは疲労が原因のようだ。今回の「かゆみ」も単なる疲労だといいのだが。

2月12日 大滝山公園スノーハイク。山頂まで登り用水地をぐるっと一周。雪が深く重く、ラッセルが大変だった。歩行時間は約4時間。帰り着いた時は疲労困憊。寒いのは苦手ではないがアウターの下にフリースの上着を着てまたしても失敗。汗がすべてフリースに溜まってしまった。ランチの「おかゆ」はすっかり定番メニューに。「おかゆ」だと食欲が落ちず2食分は食べられる。もう一つ、小さなジャーに熱い甘酒も。これも大正解。雪の中の森を歩くのは本当に楽しい。

2月13日 毎日何かしら問題が起き対応に追われ、気が付くと1日が終わっている。よくもまあトラブルの種は尽きないものだ。なにせ10本もの本が同時進行中だ。こうしたことも十分あり得るのだが過去にあまり経験のない現象なので、正直なところ戸惑っている。原稿が集中した理由ははっきりしている。「偶然」である。ここ数年、刊行点数は減り続け、去年後半は3か月に1本の本しか出せなかった。その反動で一時的に湧き水のように原稿が「吹き出し」したのだ。でも湧き水はすぐに枯れる。元のチョロチョロの流れに戻るのは目に見えている。

2月14日 いたるところで雪に埋まった車の救出作業が出現。事務所前でも昨日1日だけ5,6件の救出劇。うち1回は自分のところの車だから、恥ずかしい。わずか5メートル先の車庫までスリップして戻れなくなった。雪の降らない地方の人たちは理解できないかもしれないが、5メートル先の「我が家」に帰れないのだ。車が雪に埋まる事故は、寒波の後に雪が緩んでドロドロの湿地帯のような状態になったときに起きる。路面がカチカチに凍っていたり、大雪の時は逆に車の埋没はめったにない。埋まった車は一人ではどうにもならない。数人で力を合わせるて雪から救出させるしかない。スリップ防止用のタイヤの下敷きも冬期間は必需品だ。うちの車にはこれがついていない。今日買ってこよう。備えあれば憂いなし。

2月15日 夜中もブルの除雪の音。夜通し雪かきをしているのだ。重機の免許を持っている人たちは引っ張りだこだろうな。重機免許は建設会社の専売特許だと思っていたが、自衛隊の勤務経験者たちも多いそうだ。除隊してもこの季節は食いっパグレがない、とSシェフから教えてもらった。夜中にブルの除雪音を聞きながら不意に思い出した。昔、といっても半世紀近く前、住んでいたアパートからよくライオンの遠吠えが聞こえた。動物園がアパートの隣の千秋公園にあったからクリアーに遠吠えは聞こえた。夜中か朝方が多かった気がするが、よく思い出せない。ライオンの声で目が覚めた、なんてロマンチックだが、まあ今なら考えられないシチュエーション。動物園が市街地のど真ん中にあって「臭い」の問題は起きなかったのか。まあのどかな時代だったんだろうね。

2月16日 東京から来たフリーライターの方から取材を受け、あらためてわかった。無明舎が秋田大学前の郵便局跡で旗揚げしたのが72年。改組して出版専業になったのが76年。広面に舎屋を建て引っ越したのが80年。だから今年で創業45年になる。法人改組してから数えるべきという人もいて、そうなると41年目だ。自分では72年創業で通しているのだが、ライターの人が計算すると新舎屋に移る前の郵便局跡に、8年間もいた、という事実を知らされて自分でもビックリした。4,5年しかいなかった記憶だったからだ。この借家で古本屋をやり企画やミニコミ発行を経て4年後に出版専業者に転じた。そして出版社として全力疾走で走り出した重要な最初の4年間は、この借家で営まれていたわけだ。このことに軽いショックを受けた。出版の仕事の多くは新社屋が舞台だと思い込んでいたのだ。

2月17日 連日外呑み。街の真ん中でちょっと面白い居酒屋を見つけた。何の期待もしないで入ったのだが、出てくる肴が全部おいしかった。一番驚いたのは漬物。きけば板前さんが自分で作ったものだという。半ば仕事の延長(趣味)でいろんなものを手作りして出している「料理好きの板前」のいる店だった。「料理が好きでたまらない人のやっている店」は旨いにきまっている。とはいってもわが味覚にそんな自信があるわけではない。そこで昨夜はSシェフを無理やり誘い出し、この店のチェックをしてもらった。何品か手作りのものを食べてもらい、見事合格。これからの飲み会にこの店を利用することが増えそうだ。 
(あ)

No.837

バブル―日本迷走の原点
(新潮社)
永野健二

難解な経済用語も当たり前のように出てくるが、全体として実に論理的に、わかりやすく、ぶれない視点で、あの狂乱の時代をジャーナリストとして正確に記録している。「失われた20年」を検証せずして日本は将来を語れない。 日本に奇跡の復興をもたらした高度経済成長は政・官・財が一体となった日本独自の「戦後システム」によるものだった。それが70年代になり、グローバル化と金融自由化によって国内外からシステムに強力な揺さぶりがかけられた。そして85年プラザ合意。超低金利を背景に狂乱の時代が始まった。バブルによって日本人の価値観は壊れ、同時に「戦後システム」も崩壊。まさに「第2の敗戦」といっても過言ではない。バブル経済は資産価格が実態からかけ離れて上昇すること。持続的な市場経済が運営不可能になる現象だ。さらにオマケもつく。バブル崩壊後にはかならずデフレという病気もやってくる。80年代の異常なバブルの反動として、今のデフレは避けて通れない道だったのだ。 日経新聞記者としてバブルの最深部をリアルタイムで取材していた著者は、当時から「伝説の記者」として名を馳せていた。「バブルとは野心と血気に満ちた成り上がり者たちの一発逆転の成功物語」と著者は言う。その起爆役は田中角栄であり、リクルートの江副浩正であった。人の悪口をほとんど言わない司馬遼太郎は、日本人を貶めた最大の犯罪者として田中角栄をあげている。また江副に関しては京セラの稲森氏が最も嫌った「下劣なバブル男」だったという。

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