Vol.903 18年4月7日 週刊あんばい一本勝負 No.895


「あたりめ」はもう食べない!

3月31日 口寂しくなると「あたりめ」を食べる。コンビニで売っている「なとり」のもの。甘くないので太らないし、量もそんなに食べられない。最適のダイエット食品だと自惚れていたが、食べる量が少しずつ増えてしまった。最近、胸焼けで夜中に目を覚ます。暴飲暴食してないのにどうして? どうやら「あたりめ」が原因のようだ。お腹にたまって消化されず夜中にムカムカくるのだ。もう食べないことに決めた。

4月1日 南木佳士の新刊『小屋を燃す』が出た。アマゾンに注文したから明日には読める。好きな作家の新刊は自分の誕生日よりも待ち遠しい。本を読んでみんなにすすめたくてたまらなかった最初の本はH・F・セイント『透明人間の告白』だった。もう20年以上前の話だが、あの本をまた読みたくなった。20年前と同じようにコーフンするのだろうか。今日は午後から町内会。

4月2日 4月になってしまった。「なってしまった」という言い方がぴったりなのだが、この感覚を言葉で説明するのは難しい。冬の長いトンネルを抜けつつあるかな、という観天望気もあるのだが、先に明るい未来がくっきり見えるわけではない。不安と低迷から少しだけ抜け出したかな、という感じ。1年はまさに「あざなえる縄のごとし」。悪いときにどうやってやり過ごすのか、何度も経験済みのことなのに、そのたびにうろたえ、悲嘆に暮れ、世をはかなむ。どんなにのたうち回っても過ぎてしまえば、いつもの日常からちょっと寄り道しただけのこと。わかっていても経験則は何の役にも立たない。

4月3日 「あたりめ」をやめたら調子が良くなった。でも体重が2キロオーバー。ゆっくり落としていこう。右肩の腱が切れた友人から悩みを聞いた。手術をすると半年間ギブス生活だそうで、それが嫌なのでリハビリと周辺筋力を鍛える方法で乗り切ることにしたという。「もう年だし、手術はね」と友人は言う。自分だったらどうするだろうか。考えてみて、やっぱり手術を選ぶという結論に。わずか半年間の我慢で、充実した70代を送られる、と前向きに考えれば、やはり自分なら手術だ。

4月4日 身体の調子が悪くても年なのだからしょうがない。このごろは目がかすむ。テレビを見ていてもテロップがほとんど読めない。小さな字は裸眼ですいすい読めるから、老眼の進行が遅いと自慢していたのだが、もうダメ。ほぼ白内障だろう。手術を受ければはっきり見えるよ、とみんなは言うが、今書いている原稿が完成するまでは、このままでいこうと思っている。本当は手術が怖いだけなのだが、心の中では、自然に治ってくれたら儲けもの、と思っているバカな自分がいる。

4月5日 HP連載中の「奥のしをり」が再開。訳者である加藤さんが多忙なため12回で中座していたもの。著者の船遊亭扇橋は江戸の落語家。思うところあり江戸から仙台に出て、秋田や青森を旅した記録だ。落語家の旅日記というのも珍しいが、ひとつ場所に長く逗留するので地元の生活者と同じ目線になっているのが面白いところ。波乱万丈の旅で目が離せない。

4月6日 読みたい本の傾向が微妙に変化。新刊一辺倒だったが、最近は過去の読み逃した本を探して読む傾向が顕著だ。『ハチはなぜ大量死したのか』とか『ヒルズ黙示録』、『透明人間の告白』といったものだ。『ヒルズ黙示録』はあのホリエモンのライブドア事件のドキュメント。何をいまさらという感じだが今読むと実に面白い。事件の導火線になったのは村上ファンドであり、ライブドアをけん引したエンジンはナンバー2のMだった、なんて当時は知らなかった。ホリエモンがフジテレビを乗っ取ろうとしたアイデア自体が村上氏のアイデアで、堀江本人は宇宙開発と芸能界にしか興味がなく、タレントの吉川ひなのに夢中だったのだそうだ。書いたのは朝日新聞記者で当時は「アエラ」にいた人。筆力がハンパない。
(あ)

No.895

銀河鉄道の父
(講談社)
門井慶喜

 第155回の直木賞の候補になって落選した『家康、江戸を建てる』が初めて読んだ著者の本だ。利根川の治水と巨石探しの物語でもある。著者の「慶喜」という名前が気になったが、これは徳川慶喜からとったもの。本名だ。本書は宮沢賢治の父親にスポットを当てた「親子」小説だが、賢治が主役ではなく父親が物語の主人公だ。賢治の父親にスポットを当てる、という作家的アイデアが素晴らしい。結果、この本で158回直木賞を受賞するわけだが、作家にとって「どんなテーマを書くのか」は最大の懸案だ。このテーマを思いついた時点で、もう作家の勝利といっていい。小生は宮沢賢治にほとんど興味がない。難しくて詩的で高踏的すぎるからだ。でも本書は「読みたい」と思った。この本を読むことで宮沢賢治が好きになるかもしれない、そんな期待もあった。文中に「べっこ」という岩手弁が何度も出てくる。秋田弁(県南部)では「びゃっこ」という。「少しだけ」という意味だが、秋田の人は自分のところだけの方言と錯覚しているが、岩手でも使うのが分かったのは収穫だった。

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