Vol.943 19年1月12日 週刊あんばい一本勝負 No.935


買ったばかりのブレザーがびしょ濡れだ。

1月5日 昨日の初詣登山で気分がすっかり入れ替わった。なんとなく正月3が日は「気ぶっせい」(うっとうしい)感じで、痛風に悩まされた右足首にまた違和感があり、ときどき寒気が襲ってくる状態だった。それがひと汗かいたらすっかり消えた。いいタイミングで肉体を酷使し、ダラダラした精神に電流が走った。

1月6日 生活のペースを崩さずお正月も、なんて言ってしまったが、朝ごはんの後、昼近くまで二度寝している。お正月中、かえすがえすも無念だったのは「おでん」を食べられなかったこと。年末に西武におでん種を買いに行ったら、お正月用鮨コーナーに替わっていた。ここの魚屋が作るすり身はおでんの概念が変わるほどのおいしさ。おせちは毎年、和食みなみの三段重ね、年越しそばは秋ノ宮の宅配手打ちの神室そばが定番だ。これにこのおでんが加わり強力なお正月3点セットになる予定だった。

1月7日 仕事始め。朝の定例会議。去年の新刊点数は歴代最低クラスで一昨年の20点を大幅に下回った。昨夜は寝床に入ってからいろんな雑念が湧き上がり、頭がさえ、眠られなくなってしまった。去年はほとんどといっていいほど秋田から「外」に出なかった。今年は積極的に外に出よう、と思っている。出不精の解消だ。今年もよろしくご指導のほどお願い申し上げます。

1月8日 お正月気分が抜けるころ、逆にこちらは仕事が一段落、暇になる。というのも、みんなが休んでいるうちに仕事をしたがる「あまのじゃく」だからだ。みんなが一所懸命働いているときにボーっとしているのはなんだか気分がいい。裏を返せばビンボー性なだけなのだが、もうこうしたサイクルがすっかり身についてしまった。

1月9日 午前中で仕事を終え新幹線で仙台へ。図書館や古書店を回り、モンベルやユニクロでショッピングして帰ってきた。目的は往復4時間の車中のほうだ。ここで読みかけの文庫本を読了するつもりなのだ。半藤×出口の『世界史の中の日本史』、獅子文六『てんやわんや』、須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』の3冊を持ち込み読了。目的は旅ではなく読書というのも贅沢だが、たまにはこんな旅もいい。

1月10日 昨日、仙台で冬物のブレザーを買った。一目ぼれの衝動買い。そして今日の朝一番、そのブレザーを着て理容室へ出かけたのだが、途中でバシャバシャ雨が降り出した。傘もコートも持っていない。新品のブレザーは雨を吸って膨らみ重くなった。髪を切り終わって帰るとき、ブレザーはまだぐっしょり濡れたまま。情けなくて涙が出そうになった。

1月11日 金曜日だが代休。山に行ってきた。正月ボケした身体に新鮮な負荷をかけたかった。五城目の森山で一番急峻な「スズムシ坂」を一気に駆け上り、山頂まで1時間10分、這いつくばるように登ってきた。下山して家に帰り、昨日の雨に濡れたブレザーをドライクリーニングに。Sシャフに「雨に降られると型崩れするし、雨特有の匂いが付く」とおこられたからだ。こんな場合こそクリーニング屋さんの出番なのだそうだ。知らなかった。
(あ)

No.935

神道はなぜ教えがないのか
(ベスト新書)
島田裕巳

 去年あたりから、ボンクラ頭なりにずっと「宗教」について勉強を続けてきた。勉強というと大げさだが読む本のほとんど宗教入門書関係が多くなった。きっかけは天正遣欧使節を描いた若桑みどり著『クワトロ・ラガッツィ』だ。この本に圧倒的に影響を受けてしまった。ここを出発点にして日本に渡ってきたキリスト教に興味を持ち、山に登るたびに隠れキリシタンの逃亡の道に思いはせるようになった。そしてそこからなぜか山岳信仰に関心が向かい、必然的に「山伏」の存在に行きついてしまった。神仏習合の歴史にまでヤブ漕ぎをするように迷い込んでしまったというわけである。本書でも繰り返し書かれているのだが、神道は「なにもない宗教」である。実に不思議な宗教だ。いや、これは宗教なのだろうか。創造主もいなければ主義主張もなし。開祖がいないし偶像もない。「教え」なるものもまったくないのだから、ほとんど掴まえ所がない。ひたすら仏教のいいところを盗みながら、でも確実に日本人の心の中に一定の住処を確保してしまった。とらえどころのない不可思議なものだからこそ変幻自在に残り続けたとしか言いようのないのが神道である。

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