Vol.1024 20年8月15日 週刊あんばい一本勝負 No.1016


道路脇に倒れていた老婆

8月8日 秋田にもクラスターが発生。外に出てお店に入ると検温されることが多くなった。先日もお店で測られた体温は「35度1分」。同じ日の夜に会食のため訪れた飲食店では「36度4分」。どちらが正しいのかよくわからない。平熱は35度ベースなのは間違いない。オレは体温が上がらない病気じゃないのか、と悩んだこともあった。それ以来、熱っぽくても体温計を使わなくなった。

8月9日 昨夜から大雨警報。夜は雨音で目を覚ますようなこともなく思ったほどの雨量ではなかった。最近気が付いたのだが、天気予報や高校野球の地区分けで「由利・本荘地域」という地区ジャンルが少なくなっている。「由利本荘」は秋田中央部に組み込まれているのだ。近世の歴史的、地勢学的視点からみれば「由利本荘」はどちらかというと県南部のほうに近いような気もするのだが、由利本荘地区の人たちはこのあたりをどう思っているのだろうか。

8月10日 『深夜特急』は全6巻の文庫本だが半分の3巻まで読了。この本のおかげでお盆休み中も退屈しないで済みそうだ。一巻目の香港から始まり・マカオ、マレー半島、シンガポール、インド、ネパールまで来た。4巻目からはシルクロードに入り、いよいよヨーロッパだ。各巻末に対談が収録されている。2巻目の対談収録者は高倉健だ。「世界で一番好きな土地はハワイ」という高倉の正直さが実にかっこいい。「深夜特急」は英語でミッドナイト・エクスプレス。これはトルコの刑務所に入れられた外国人受刑者の隠語で「脱獄」を意味するのだそうだ。

8月11日 お盆期間中もカレンダー通り。昨夜、事務所台所の換気扇通気口から鳥の鳴く声が聞こえる。スズメが巣でも作ったのだろうか。自宅の寝室からも深夜、この通気口で鳴く鳥の声が聞こえた。早速、今朝チェックしてみた。通気口には鳥が入れないように格子がはられていて、鳥の姿はない。鳥はいったい何をしようとバタバタ、チュンチュン騒いでいたのだろうか。

8月12日 新刊が少なくなったので年に数回出稿する地元新聞への広告原稿に四苦八苦。既刊本を「自然」や「人物」「江戸時代」や「アウトドア」といったテーマで分けて広告を作っているのだがネタも少なくなってきた。来月の広告原稿を悩んでいたのだが、散歩の途中、突然、「歩く」はどうだろう、と思いついた。昔の旅人は旅することが歩くことだから当然といえば当然だ。だから菅江真澄などもこカテゴリーに入ってしまう。そこまで範疇を広げていけばかなりの数の本が「歩く」本に入る。

8月13日 同じ年代の人たちが毎日どのくらい「薬」を摂取しているのか興味ある。70代になると3,4種類の薬を日常的に摂取するのは常識のようでもある。かくいう私も毎日「痛風防止」と「胃薬」「便秘」薬は定番だった。だった、と過去形なのは、今年に入ってまずは便秘薬をやめた。次に胃薬を3日に一回に減らし、痛風薬も2日に1回に減らした。3種の薬とも市販のもので医者が処方してくれるものではない。服むもやめるも自由だし、それで誰かに怒られるわけでもない。3つの薬とも食べる量と質を考え、少しの運動で問題は解決してしまう「生活習慣病」だ。食生活を変えるだけで大方が解決する。市販薬で簡単に買えるのが安易な依存をうんでしまったと猛省。

8月14日 夕食前に散歩に出た。近くの高齢者特養施設の道路脇で老婆が倒れていた。うつ伏せで長くその場に倒れこんでいて、もう死んでいる、と早合点してしまった。とりあえず手も触れず、そばの特養施設に飛び込み救援を求めた。職員はさすがに手慣れていて老婆を抱き起し、強く揺さぶると老婆は息を吹き返した。すぐに水や車いすの手配をし救急車の準備をすると、老婆はかすれ声で、すぐ近所に娘が住んでいる、といい、ケータイで連絡をとった。遠方から歩いて娘の家族を訪ねたが道路脇の段差につまづいて倒れ込んでしまったという。熱中症である。マスクをしているのが呼吸を浅くし意識を失うところまでダメージを深くしたようだ。駆けつけた娘さんに無事に保護されたのだが、「おかげで助かりました。どちらさまですか」と娘さんに言われた。「近所のものです。名乗るほどのものではありません」と、一生に一度は言いたかったセリフを吐き、その場をあとにした。確かに第一発見者は私だが、実はただただオロオロ、ビクビクしていただけだ。自分の小心さには二日酔いの朝と同じように自己嫌悪すら感じてしまう。
(あ)

No.1016

復刻版 知られたる秋田
(無明舎出版)
瀧澤酔夢編

 「大曲の花火」の開催中止が決まった。コロナ禍での苦渋の決断だ。
 「大曲の花火」は1910年(明治43)、神社祭典の余興からはじまったそうだ。しかし古い資料などに目を通すと、この花火が町を代表する祭りになる前、その「呼び水」になる出来事があったという。
 1909年(明治42)夏、地元の新聞社など3社(秋田魁新報社、東北公論社、秋田時事社)が本県PRのため東京の新聞・雑誌記者らを招いた。県内の名所旧跡、産業や特産品を全国に紹介してもらう目的で20新聞2雑誌、総勢20数名の記者たちを10日間にわたって接待したのだ。この「秋田観光記者団」のため、当時の大曲町の青年団は夜の川に舟を浮かべ、両岸から花火を打ち上げ歓待した。これが「呼び水」といわれる出来事だった。この記者団の秋田レポートは、その年の冬には本書となって刊行されている。それを75年後にうちが復刻した。改めて読んでみると「大曲の花火」に関する記述がごくわずかだった。てっきり記者たちのレポートが「呼び水」になったと思いこんでいたが、そうではなかった。実はホスト側の青年団の接客行動そのものが、祭りの「呼び水」になり受け継がれていった、ということのようだ。いまや秋田を代表する巨大イベントになった大曲の花火が、東京からの記者団を歓迎するための川遊びの余興のひとつだったのだ。

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