Vol.1101 22年2月5日 週刊あんばい一本勝負 No.1093

毎晩いい映画を観ています

1月29日 今年最初の著名人の訃報は作家の笹本稜平さん。私より2歳ほど年下で、彼の書く山岳小説が好きだった。哀悼の意を表して、彼のベストセラー作品である「春を背負って」(文春文庫)を読んだ。脱サラして、山小屋を営む父の跡を継いだ若者の成長を描いた連作短編集だ。この文庫には解説がない。代わりに著者本人と映画監督の木村大作の対談が載っている。この対談で映画にもなっていることを初めて知り映画も観た。原作とはかなり違った物語になっていたが、こちらも面白かった。

1月30日 新聞などの書評はざっくり目を通す。本には食指が動かなくても書評そのものが面白いケースがある。先日、朝日新聞の横尾忠則の、山中伸弥・藤井聡太対談本「挑戦」(講談社)の書評は笑ってしまった。冒頭からコロナについて熱く語る山中を藤井は一切ぶれることなく冷静にいなす。iPS細胞の感想を求められても、藤井は驚きはするが全身将棋士の姿勢を崩さない。AIに関しても「人間は勝てない」という山中に対し「大局観で勝つ」と反対意見を堂々と述べる。書評の後半、山中は消えてしまい、もっぱら藤井の将棋と芸術について横尾は自説を展開……。対談相手の山中は形無しだが、こんな書評が許されるのも横尾忠則だからだろう。たまにはこんな書評もあるから見逃せない。

1月31日 今日で1月も終わり。寒いし、ヒマだし、オミクロンな31日間。来月は暖かく、忙しく、外に出られるような月になってほしい。ところで、一月間探していた本が今日の朝見つかった。ある印象的なフレーズが載っていて、その言葉をもとに新聞コラムを書こうと思ったのだが、どの本だったのかを忘れてしまったのだ。歴史の本なのだが10冊以上チェックしても、出てこない。ほぼあきらめていたのだが今日一冊だけノーチェックの本に気が付いて、その本を開いたら最初のページにその言葉が飛び込んできた。2月はいい月になりそうだ。

2月1日 先日のスノーハイクの山中でA長老が「今日は八甲田の日だね」と話し出した。雪中行軍で陸軍歩兵部隊199名が八甲田山中で遭難死した事件だ。個人的に「八甲田消された真実」(ヤマケイ文庫)という本を読んでいたのだが、この本はヒットした映画「八甲田」によって定説となった「物語」の誤謬を丁寧な分析と資料収集で解き明かしたもの。映画を見てない私にはよく意味が分からない。急いで映画を見たのだが、豪華キャストで3年もかけて八甲田ロケをした迫力ある映画だった。映画では北大路欣也と三國連太郎の対立がメインで物語が進行し、三國を悪者に仕立てる勧善懲悪のドラマ構造なのだが、本はこの「物語」がいかにでたらめかを、自ら自衛隊出身者として膨大な文献資料をひも解き、雪中行軍の体験も交えながら「物語の舞台裏」を明らかにしていく。

2月2日 ジャニーズのタレントが石田三成を演じた映画「関ヶ原」を観ていたらセリフが早すぎて聞き取れない。途中で見るのをやめようと思ったが「もしかすると、おれの耳のほうがヘンなのかも」と思い直した。洋画だと字幕が出るので問題はないが、邦画は、とりわけ時代劇はセリフの理解が物語の基幹をなす。これが理解できないのだから映画のだいご味は半分そがれてしまう。これは相当にやばい状況だ。そういえばテレビCMも早口で何を言っているのかさっぱりわからないことが度々ある。年をとるというのはこういうことなのだ。

2月3日 仕事はめっきりヒマ。でも毎日普通通りに出舎し、ルーチンの仕事をこなし、筋トレに散歩、夜は欠かさず映画を観る。昨夜のブラジル映画「ぶあいそうな手紙」は面白かった。舞台はブラジル南部ポルトアレグレで、78歳の視力を失いつつある頑固な老人と23歳のパンク娘の奇妙な交流を描いたもの。手紙が重要なテーマだ。前に観たアウシュビッツの生き残りナチを殺す旅に出る「手紙は憶えている」(カナダ・ドイツ合作)も、アウシュビッツ収容所の女性看守と若き日の恋と葛藤を描いた「愛を読む人」(米・ドイツ合作)も、なぜかテーマは「手紙」と「本を読む」ことだった。まったくの偶然なのだが、同じテーマの映画を立て続けに観たわけだ。

2月4日 人が死ぬことを「息を引き取る」という。よく考えると、この言葉の主語は誰? 死んだ本人なのか、残された親族なのか、それとも別の誰かなのか。息を「引き取って」どうしようというのか。息を吸ったまま吐かないのは「冥途の土産に最後の息を残すため」とか「残された人たちが息を引き継ぐため」とか、「死者の体内に呼吸をとどめ置くため」といった諸説が文献、ネットには入り混じっている。広辞苑には、浄瑠璃から発生した江戸時代に生まれた言葉、ともある。「生きもの」とは「息をするもの」からきた言葉だとすれば、「引き取る」というのは神様に「息(生)を返す(受け取ってもらう)」という宗教的な解釈も可能になる。よくわからない。

(あ)

No.1093

記憶の海辺
(青土社)
池内紀

 10歳の時の朝鮮戦争から、カフカ訳を終えた60歳までをたどる、月刊誌「ユリイカ」の連載に加筆した物語性を持ったエッセイである。本書の中で「この齢(75歳)になるまで病気知らずできた。両親や兄がずいぶん早く死んだものだから、その使わなかった寿命を預かっているように思っている」と書いているが、この3年後、78歳で著者は突然亡くなった。「自分に許されたヒトめぐりの人生の輪が、あきらかにあとわずかで閉じようとしている」とも書いているのだが、どうやらもともと「上が180、下が130の高血圧体質」だとも書いていた。一日2食で、パソコンもケータイもテレビもなくCDだけがどっさりあるが、なんと新聞もとっていないというのは見事としか言いようがない。50代なかばで東大教授の職を辞し、カフカの小説をひとりで全部訳すこと。北から南まで好きな山に登ること。なるたけ物を持たない生活をする、という3つのルールを決めて、フリーランスの暮らしに入る。昔から同窓会が嫌いで欠席続き。同じ生年だから同時代に生きたとは限らない。ぬくもりの残ったトイレに腰を下ろすような不快感がある、と断じる著者の姿勢は私の教師でもあった。

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