Vol.1124 22年7月16日 週刊あんばい一本勝負 No.1116

バブルの時代が好き!

7月9日 新しいカメラがやってきた。オリンパスのタフ6という機種でけっこう重い。防水、耐震に優れた機種だからだろう。早速、散歩はカメラテスト。意外だったのは電池の減りがけっこう早いこと。この重さと接写の時に必ずフラッシュが同調する。ちなみに今日のHPの写真はこのカメラテスト撮りしたものです。

7月10日 笙ヶ岳登山。30度を超す暑さの中での鳥海山塊(石の山)を歩くのは体力的に問題があったが、ヘロヘロになりながら3時間で山頂に。登山口は大平口(吹浦コース)で、象潟口より距離は長くなるが、故・藤原優太郎がこよなく愛したコースだ。個人的には追悼登山である。登山道にはコバイケイソウ、ニッコウイスゲ、チングルマといった花の群生が続いた。山頂付近のニッコウキスゲが大人気で、いたるところから悲鳴に似た嬌声が聞こえた。暑さのせいにしたくはないのだが確実に体力は落ちているなあ。

7月11日 今年は「夏休み」がとれそうだ。なんて書くと超多忙の芸能人みたいだが、逆。仕事がヒマなので時間はたっぷりある。本と映画と事務所を捨て外に出たい。鳥海山麓(山形・遊佐町)のロッジに泊まって周辺のアウトドアスポットをくまなく探検する。自分のご先祖様の山形・天童市にルーツ探しの旅をするのもやりたかったこと。岩手に行ってアテルイから平泉までの歴史的遺構を訪ね歩く旅も魅力的だ。とにかく体力がなくなってきているから、あまりノンビリはしてられない。

7月12日 腰が痛い。理由はすぐにわかった。先日の笙ガ岳の登山道はほとんどが石畳の上を歩く。この石の反発がモロに腰を直撃するのだ。身体は正直だ。居職のようなものなのでデスクワークが長いのだが、奇跡的に腰痛はほとんど経験したことがない。一日を共にする椅子だけは身のほど以上の、いいものを使ってきたから、と自分では思っている。山歩きが原因で腰痛というのは想定外だった。

7月13日 近所の川沿いに隣接している石動神社と白山(しろやま)神社について調べている。どちらも能登の国(石川県)の神様を祀っているのに、その一方に訊いても「向こうとは無関係」という。文献では「氏神様として正応4年(1291)におまねきした」と、どちらの神社の履歴にあるから同根であることは間違いない。でもなぜ2つの神社が50メートルも離れていない場所に並んでいるのか。例大祭の日は違う。たぶん、一方の神社が洪水などの自然災害で場所を移動し石動神社の近くに移ってきた、と考えるのが自然だろう。本来は離れた違う集落にあった神社だったのだ。

7月14日 なんとなく「自分が死ぬイメージ」はある。散歩中に意識がなくなってそのまま身罷る。あるいは階段から落ちてそのまま絶命……といったあたりだ。事務所も家も部屋は2階にある。毎日何度も階段を昇降するのだが、いつかは必ず「ここから落ちる」と思っている。昇降時には必ず手すりにつかまる癖がついたのだが、頭がボーっとしている朝は特に危険だ。左手で手すりにつかまり、右手で壁を押さえつけ、まるで病後の患者のようにゆっくり降りる。冬のアイスバーンの転倒も怖い。今年2月、アイスバーンで転倒した時に強く打ち付けた両手首は今も痛みが去らないままだ。

7月15日 テレビで「バブル」がテーマになると、ほぼかならず録画する。80年代後半から90年代初めのこの時期、秋田に実感としてのバブルはなかった。ディスコもヤクザも証券会社も不動産屋も身近にないせいで、バブルとは無縁の世界の住人だったのだ。同世代で定年後、秋田に帰ってきた人たちから「電話で1億の仕事なんか来ても、ちょっと忙しくて、って断っていた」などと聞くと、「やっぱりあのバブルって本当だったんだ」と妙に感動してしまう。そのバブルの時代を象徴する伝説の魔性の女の半生を描いた林真理子『アッコちゃんの時代』(新潮文庫)を昨晩一挙に読了いた。わき役として登場するのは「地上げの帝王」といわれた早川太吉だ。やはりバブルの帝王といえばこの人物にトドメをさす。
(あ)

No.1116

神社に秘められた日本史の謎
(宝島社新書)
古川順弘

 山に登るために思うのだが、どんな山にも神社がある。柳田国男によると、「古い時代の神社は、ただ祭りの日に集まって神を祭るために、別置せられていた霊場だった」という。神祭りはしばしば行われ、神霊の常在を願う人々の気持ちが高まってくると、ヤシロに常設の社殿が造られるようになる。これがミヤである。神が人間の汚れを浄化し、幸福を授けてくれると信じていたのだ。神社と山(森)の関係は、樹木に神が鎮まり、山に神が住まうと考えたためだ。神社よりも先にマツリがあり、マツリは神の威に人が従い、服従する「まつらう」からきている。神の前に持坐して、しばらく時を過ごすことが祭りだ。神はハレの時に限って天から地上に降臨し、祭りが終われば神界に帰っていく。したがって祭りのとき意外に神社に参拝することはあり得なかったのだそうだ。無神論者の孔子の言葉である「祭るにますが如く」の「祭る」とは祀ること。「ます」は「います」という「在す」こと。〈神の祀ってあるところには「神がいる」ようにあがめなさい〉という意味だ。神を祀るところには神が宿る、というのは日本文化の基盤ともいうべき思考法である。この言葉の意味を知っただけでもこの本を読んだ価値はあった。

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