Vol.1193 2023年11月11日 週刊あんばい一本勝負 No.1185

本と山とクマのこと

11月4日 横手にある黒森山と御嶽山の縦走往復だ。予想通り25度を超える暑さでばててしまった。まだ紅葉の残るこの時期に暑さとは、まったくどうなっているのか。ほとんどの人が初対面の山行だったが、それはそれで楽しかった。汗まみれになって下山後、「あったか山」温泉。山はわずか4・6キロぐらいの歩行距離で、高低差もないのだが疲れた。家に帰ってビールを飲んで、すぐに寝てしまった。山の強敵は暑さだ。

11月5日 山登りは心身のリフレッシュになる。でも不安もある。先日の黒森山でも山頂付近で転倒した。木の根っこか小石に躓いて、「あっ転んじゃうな。でも左足でたたらを踏めば、危険のない草地を選んで、そこに転ぼう」と心の中で考えたのだが、実際は左足は動かず、何かが崩壊するように、ゆっくりとその場に崩れ落ちてしまった。頭のなかはスローモーション、肉体は直線行動だ。頭と体の「時間差」がありすぎるのだ。1カ月前の月山森でも山頂付近で転倒いた。気持ちはもう安全地帯に飛んでいるのに身体はもとのままで動かない。この手の危険回避はトレーニングでできるものなのだろうか。

11月6日 20代に初めて外国(ブラジル)に行き、バスのことを「オニブス」と言うことを知った。「オニブス」はラテン語で、日本でもけっこう知的な人が使う「オムニバス」のことだ。映像や音楽の世界ではよくこの「抱き合わせ」を意味する言葉を多用する。要するに原義は「乗合馬車」のことで、だから日本のバスの語源だ。いっぽう文学作品では、複数の作家が同じテーマで書いた作品をひとまとめにすることを「アンソロジー」という。こちらの語源は「花を集める」で、やはり「集合」に近い意味だ。ずっと「オムニバス」と「アンソロジー」の違いがよくわからなかったが(いまも明確ではないが)、文芸か音楽か、というジャンル分けが一番わかりやすい。でも最近はけっこう文学畑でも「オムニバス作品」という言い方が増えているようだ。

11月7日 今日は女神山に登る予定だったが雨の予報なので前日に中止の連絡。今日は鳥海山・稲倉山荘の冬季閉鎖のため、書店コーナー撤収があり車を使う日で、それをすっかり忘れていた。実は3日前の黒森・御嶽縦走の疲れがまだ残っている。朝起きてもなんとなく寝不足でキレが悪く、疲れも取れてないのがはっきりわかった。こんな時は無理をしないに限る。朝一番で登山の主催者にキャンセルのメールを入れようとしたら、すでに「雨天中止」のメールが入っていた。「渡りに船」の雨だ。1週間に2回の山行というのは無謀だ。

11月8日 ついに秋田市内で「クマ鈴」を鳴らしながら歩いている高齢女性に出会った。鹿角の12頭のクマ出没ニュースにはさすがに驚いたが、マスコミの「クマ報道」にはちょっと違和感を覚える。北海道のヒグマと本州のツキノワグマを、区別なしに(もしかすると意識的に)「同じクマ」として報道していることだ。北海道のヒグマは大きく、攻撃的で、数百メートル離れていても人間にも向かってくる。しかし本州のツキノワグマは。遠くからでも人間を見つければ逃げていく。かなり臆病で小心な動物だ。その臆病な彼らが民家まで出没するようになったのは「人間は怖くない」と知ってしまったからだ。射殺するのは簡単だが、そうすると「人間は怖い」と子孫に伝える遺伝子は途絶えてしまう。出たら殺す、を無限ループで繰り返すことになる。それは解決ではない。

11月9日 このところ読む本の5冊に一冊は司馬遼太郎だ。未読の司馬ものを探していたら、肝心の「街道をゆく」シリーズ『秋田県散歩、飛騨紀行』(朝日文庫)を読んでいないことに気が付いた。バブルが始まった86年頃の秋田紀行だが、司馬自身の戦争体験からはじまり、芭蕉の象潟や菅江真澄、狩野亨吉や内藤湖南についての記述だけが長く、「他はないの?」と半畳を入れたくなる内容だった。個人的には「山形・庄内」の項も興味あるが、山形は『羽州街道、佐賀のみち』があり、でもここに庄内はほとんど登場しない。司馬にとっては東北とは、南部や会津、津軽のことで、この3カ所が「特別な意味を持つ東北の地域」だ。ちなみに秋田紀行にはうちの本(「秋田野の花山の花」)も登場していた。これはちょっぴりうれしい。

11月10日 内閣府の県民経済計算の推計結果が公表され、秋田県の県民所得は東北6県中の最下位、全国でも37番目の順位だった。何度か行ったことがある東京の国立科学博物館で、コレクションの収集・保管のための資金が不足し、クラウドファンディングで9億円の資金を集めたという。これはうれしいニュースなのか、悲しい現実なのか。一方で大阪・関西万博の当初予算が8割増の2350億円になったという。時代遅れの短期間の地域のお祭りに、自分たちの税金が使われる。コロナ禍をいいことに、連日万博の宣伝服を着てTVに出ていた厚顔の知事に反省や悔悟はないのだろうか。9億と2350億、人類の英知である歴史文化遺産の維持と、短期間のバカ騒ぎのための建設資金……やはり何かが狂っている。
(あ)

No.1185

日本の歪み
(講談社現代新書)
養老孟司・茂木健一郎・東浩紀
 鼎談の形をとっているが、他の2人はあくまで「養老孟司」という知の巨人の、その隠れた地下水脈を掘り下げる「質問者」だ。その質問の斬りこみ方が実にシャープだ。これだけでこの鼎談の企画は成功しているといえるのかもしれない。養老の思想的背景は迷いがない。「すべての歴史は現代史である」と断じ、どこかに正しさがある、という思い込みこそ「近代日本社会の歪み」」そのもの、という。外圧も含めて、これまでもこれからも日本が大きく変化するのは「災害」によるのではないか、というのも養老の考え方だ。たとえば大正時代は消費社会の始まりで明るい雰囲気だったが、突然、軍部一辺倒から戦争に突き進む。これは日本近代史の不思議のひとつだったが、養老は「関東大震災」が境目、というかきっかけだったのではないかという。日本の近代史を支配しているのは天災なのだ。養老が一番重要と考えるのは「平和」でなく「日常」だともいう。戦後社会は安心感を与えない社会だった。だから戦後民主主義では左翼が一番居心地よかった。人口は増え、年金も社会保障も心配なく、核の傘に守られ、安全保障も考える必要なかったからだ。日本はこれから「小さな自給自足の集団を日本国中に置いていくしかない」し、「天災によって実質壊滅し、中国の属国になるしかない」可能性まで、堂々と本音を吐露している。

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