Vol.1191 2023年10月28日 週刊あんばい一本勝負 No.1183

活字・印象派・鳥海山

10月21日 活字離れとか、出版不況の声がかまびすしくなるのは90年代後半から。個人的には「活字離れ、本離れ」という実感がまるでないのだが、本は売れなくなり、年々出版依頼は減る一方だ。私の日常には、あいもかわらず本が必要不可欠で、本がなければ禁断症状のでる日々を送っている。だからまだこんな仕事を続けているわけで、世の中の動きとは逆行している、と感じることもある。でも逆行が悪いことだとも思っていない。今も活字が大好きだから、毎日欠かさず本を読む。それ以上でもそれ以下でもない。人は自分の基準で世の中を渡っていくしかない。

10月22日 クマ被害が出てしまった。来週、「りんご三山ツアー」と銘打った横手にある金峰山、男亀森、真人山の縦走(全走行距離約7・5キロ)予定だったのだが、クマの出没情報があり中止に。登山者がクマに襲われるケースはめったにない。これはクマ鈴や笛といった安全装備や道のない場所に入らない、といった基本的な行動のためだ。それでもやはり「クマの領域にお邪魔する人間」であることに変わりはない。山に入る限りは常にクマとの遭遇は想定している。その危険も「こみ」で登る、という思いはかわりない。

10月23日 写真がダゲール(フランス人)によって発明されたのは1839年。この発明に宗教家は「神への冒涜だ」と怒り狂い、金持ちの肖像画を描くことで生計を立てていた画家たちは政府に写真禁止を陳情したという。この30年後、「印象派という絵画思想」が登場する。写真という写実に対する反発から生まれたものだ。写実から離れ、絵画そのものが主人公で「作家は創りたいものを創る」という画家側からの宣言でもあった。写真的写実からの脱却であり、聖書の絵解き説明者からの独立だ。絵画は何ものかの模写や従者ではない、ということか。……こんな理解でいいのかな。

10月24日 半世紀の編集者生活で心残りがひとつある。精興社活字を使って本を作ることがかなわなかったことだ。先輩に精興社の担当者を紹介してもらったこともあるのだが、やはり私にはどうにも敷居が高かった(値段も高いし格式も高い)。私たちが手にする岩波や筑摩の文学全集は精興社の活字で組まれている。画数の多い漢字も黒く見えず(活字の線が細いため)、仮名文字のやさしい柔らかさは類をみない。昔から文学全集の多くは精興社活字が常識だったので、それ以外の印刷所が手掛けた全集は、すぐに「精興社でない」ことがわかった。村上春樹のベストセラー『ノルウエイの森』も精興社活字で組まれているが、『村上ラヂオ』という本では、「あまりに高雅に過ぎるから」という理由で、村上自身がこの本では精興社活字を使うことを拒否したことが書かれている。

10月25日 夜中、雷が鳴り響いていた。音よりも稲光のほうが怖い。最近は航空会社からもらったアイマスクを付けて寝る。これだと100パーセント遮光ができて目を覚ますことはない。昨夜は久しぶりに足がつった。最近足がつらないのは寒くなってもポットに入れたお茶をたっぷり飲んでいるからだ。それを昨日は半分ほど残したら、テキメンにダメ。やはり水分と足つりは関係がありそうだ。さらに毎日飽きずに夕飯後3時間、コツコツとブラジルの原稿を書いている。自分をほめてあげたい。

10月26日 HP写真は説明が必要だ。月山森横にある鳥海山で、毎年ここに「心字雪渓」と呼ばれる雪型が残る。それがこの夏の猛暑で雪形は跡形もない、というメッセージ写真だ。ところでクマ騒動だ。昨日も仕事場の上空をヘリコプターが飛んでいた。すぐに「クマ患者だな」と思い至った。ネットニュースを見ると、やはり県内でクマに襲われ重傷のニュースが出ていました。この周辺は救急車の姿やヘリコプターは日常風景だ。コロナの時もうるさかった。来客が救急車のピーポーやヘリの騒音に反応するのを見て、そうかこれが自分には日常になってしまったんだ、とあらためて気づかされた


10月27日 そろそろ鳥海山5合目の山小屋が冬季閉鎖になる時期だ。ところで鳥海山にある神社の名前は「大物忌神社」だが、ずっと「大物」という言い方に尊大なイメージを持っていた。「物忌」という言葉に「大」という位階が付いただけ、と知ったのはそんな昔のことではない。ちなみに飛島には「小物忌神社」もある。「物忌」とは、心身の行動の慎みに由来する古語のようだ。「汚れを知らぬ少女神官で、朝夕の大御食(おおみけ)に奉仕する任務を持つもの(伊勢神宮の祭儀で)」(新野直吉)という意味があるのだそうだ。鳥海山は山の形をした神だ。土地の人々には日常の平穏を守護してもらう親しみのある自然神で、畏怖すべき神でもある。農耕が進展し米の収量を増やしたい地元民にも、彼らの生産力増強を国策とする朝廷にとっても、山の神は大切な神なので、朝廷はあえて山や神社にも権威のある「位階」をつけた。その神に対する国家的崇敬の度合いを示すためだ。鳥海山はその位階が「大」だったわけだ。
(あ)

No.1183

夢ノ町本通り
(新潮社)
沢木耕太郎
 ちょうど読む本がなくなり酸欠状態の金魚のような状態だった。沢木の新刊は、まさに渡りに船、飛んで火にいる夏の虫、というところ。この30年間で書かれた36篇のブック・エッセイで、構成もうまい。「本を買う」「本を読む」「本を語る」「本を編む」「本を売る」という5章だてで、これだけで「さすがだなあ」とその構成力に脱帽したくなる。最初の章にある「秋に買う」は読みごたえのあるエッセイだ。さしたる目的もなく大阪・天神橋筋商店街の古書店や食堂で、ただ本を買い、ご飯を食べるだけの小旅行記だが、これが実に面白い。こんな小旅行記を読むと「私小説作家」って何、と心底思う。これはみごとな私小説になっている。最終章にある「秋に売る」も、本を売ることに関するエッセイだが、これもほとんど私小説。最初と最後の随想が本書をきりりと引き締めている。著者がまだ20代前半の1973年の時に書いた大阪紀伊國屋梅田店のルポも掲載されている。これを最初の同じ大阪の天神橋筋商店街と対をなしているのだが、やはり年齢の壁はれっきとしてある。この若いころのルポは凡庸な印象しかないのだ。本書はブックガイドとしても実に参考になる。すでに6冊ほど、この本で取り上げられている本をアマゾンで注文した。これでしばらくは酸欠状態からは救われそうだ。

このページの初めに戻る↑


backnumber
●vol.1187 9月30日号  ●vol.1188 10月7日号  ●vol.1189 10月14日号  ●vol.1190 10月21日号 
上記以前の号はアドレス欄のURLの数字部分を直接ご変更下さい。

Topへ