Vol.1187 2023年9月30日 週刊あんばい一本勝負 No.1179

前岳と村上春樹

9月23日 月一で家族食事会を開くのが習わしだ。場所は通い慣れた「和食みなみ」。このご時世なのに満杯でにぎわっていた。美味しいのに安いから流行って当然だが、店主はカウンターの前でもくもくと料理を作り、寡黙だ。アルバイトの学生たちがきびきびと背後を動き回る。派手な宣伝広告はしない。うんちくをぶたない。メニューに新奇なものはない。開店以来20数年、通い続けているのだが、店の印象は当時と全く変わらない。華美はないが清潔がある。大声を出す客はいないし、アルバイトはよく訓練されている。行くたびに感心することしきりだ。

9月24日 ようやく秋の風が吹き始めた。今日は友人Fさんと一緒に前岳へ。「一風一飲」というのは私の造語で「風が吹けば水一口分節約できる」というぐらいの言葉だが、登山と温度は密接な関係がある。水はきっちり2リットル消化、体力的には余力があった。最初から最後まで息が上がることもなかったのは、やはり35度近くの山を登るという無謀さが前回は問題だった。それにしても旭又から奥岳登山が大雨洪水のため半永久的(この10年では無理だろう)に難しくなった。この前岳、中岳、奥岳コースが太平山登山のメインルートになるのかもしれない。

9月25日 昨夜は下山後、同行したFさんと二人で事務所宴会。大いに盛り上がった。山登りの前日、東北のアウトドア情報をネットで発信しているというかたが無明舎に取材にみえた。彼とのの話の中で出てきた「みちのく潮風トレイル」というのに興味を持った。宿に泊まりながら東北の太平洋側の海沿いの見知らぬ街を歩く、というのは魅力的だ。「歩く」ことが好きだ。

9月26日 靴下をはかないで仕事場に出てきていたが、さすがに足先が冷たく感じる。ちゃんと靴下が履ける季節になったのがうれしくもある。秋と本は相性がいい。少しは注文が動き始めてほしいものだ。自分の年齢や体力を考えると暗澹たる気持ちになることも多いが、まあ人生こんなものだろう。何一つ悩みも課題も煩悶もない老後というのも、ちょっと薄気味悪い。生きてる限り苦悩は続くと考えるほうが自然……ですよね。

9月27日 最近見る夢は「迷子になって帰れなくなる」系だ。家や友人に連絡を取りたいが、ケータイを持ってないのでどうしようもない……というやつだ。先日から読みだした村上春樹『街とその不確かな壁』は、やはりその夢とにたような物語からスタートする。一角獣と「夢読み人」が登場するから、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の進化系なのかな。2部からは40代になった主人公が会津若松の近くの図書館で働き出す物語に変わり、このへんから物語のスピードは速くなる。読みだすと止まらなくなるのだが、その面白さは「夢のような話」で、他者にあらすじを伝えるのが難しい話だ。それが世界中の人に読まれ、かつベストセラーになるのだから、私などの理解を超えている。

9月28日 午前中に近所の病院で薬をもらい、そのまま駅前まで出てコーヒー屋さんでひと休み。秘密の休憩場所(場所は言えない)でランチのとんかつ弁当を食べ、帰りに近隣公園に寄った(まだ閉園中だが)。事務所に戻ってソファーで一休みし、家で夕食、風呂に入って寝床に入る間も、実はずっと本を読んでいた。村上春樹『街とその不確かな壁』、650ページもの長編小説だ。70歳を過ぎて、まさか幽霊や夢の世界やファンタジーに酔いしれるとは思わなかったが、作家も同じ70代だ。同時代にこんな才能をもった表現者がいることを誇りに思いたい。

9月29日 毎朝、新聞を見ながら「自分も犯したかもしれない」と事件が「多い」と感じるようになった。もし自分が政治家だったら、もし自分が企業のオーナーだったら、もし自分にこんなチャンスが巡ってきたら……連想はいつも悪い方へとつながっていき、犯罪者に妙にシンパシーを感じてしまう。危険との出会いは、いまもいたるところに隠れている。本当にたまたま「普通」を装って道を歩いているが、思わぬ「落とし穴」は、そこらじゅうに掘られて隠れている。年をとってもちっとも賢くはならない、ということを年を取って初めて知った。
(あ)

No.1179

イラク水滸伝
(文藝春秋)
高野秀行
イラクに存在する「アフワール」と呼ばれる巨大湿地帯を旅するノンフィクションだ。アフワールには馬もラクダも戦車も使えず、巨大な軍勢は入れず、境界線もなく、迷路のように水路が入り組み、方角すらわからない土地(アジールのようなもの)だという。そこに住むという謎の古代宗教を信奉するマンダ教徒、フセイン軍に激しく抵抗した「湿地の王」、ソウルフードから、独特の模様を残すアラブ布、そういった民俗誌的奇習や環境保全の叡智まで「現代最後のカオス」を求めて、著者は湿地帯を探検する。「水滸伝」とは、権力にあらがうアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込むアジールでもある湿地帯を例えたものだ。「水滸伝」は腐敗と悪政のはびこる宋代(一〇〜一三世紀)に街を追われて住めなくなった豪族たちが、普通の人が住めない湿地帯に続々と集まり政府軍と闘う物語だ。このイラクの湿地帯は最古の「元祖・梁山泊」といったものなのである。著者と行動を共にする「山田隊長」こと山田高司のキャラクターも面白い。自然への並外れた知恵と経験、誰にでもフラットに接する人間力、世界的レベルの探検家にして環境活動家でありながら知名度は高くない。著者はいずれ本書を、英語版とアラビア判で刊行したいそうだ。十分にその価値が高い民俗誌的名著だと思う。

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