Vol.1195 2023年11月25日 週刊あんばい一本勝負 No.1187

「コソ泥」のように家に入る日々

11月18日 昨夜の雷はすごかった。光るのと同時に雷鳴がしたから、近くに落ちたのだろう。パソコンにはこのところ書き進めている大事な原稿がある。ちゃんとバックアップとらなきゃな、と思いながら睡魔に引き込まれてしまった。今日の午前中は「料理の時間」だ。最近はこれがもう毎週のルーチンになってしまった。ローストビーフに野菜炒め、生姜焼きに目玉焼き、ソーセージを焼いてゆで卵も作る。作り置きできるものがどうしても多くなる。匂いを外に出すため、窓を全開にして空気をすっかり入れ替える。これも気持ちいい。でも今日は雨。

11月19日 電子書籍と紙の本のことを書こうと思ったのだが、頭の中でちゃんとまだ整理されていない。読みたい本は紙で読みたい。資料として大事な書籍は、電子版でもいっこうに構わない……といった趣旨のことだが、具体性のある例証が浮かばない。ニュアンスとしては、紙は毎日の食事で、電子は月一の外食……違うなあ。毎日の食事が電子で、外食は紙……う〜ん、これも違うか。本の世界はどんどん電子に侵食されていく。でも紙の本がなくならないことだけは確か。それをちゃんとわかりやすく言いたかったのだ……。

11月20日 3日間、雨のため散歩ができなかった。仕事しながら聞いているラジオも雑音ばかりでイラつく。これも雨のせいだ。家の玄関工事も始まってから2週間、雨のせいで完成が予定より10日ほど遅れている。外に出られない閉塞感はジワジワと精神を蝕んでくる。午後、ちょっとだけ晴れ上がった。大急ぎでいつもの散歩コースに飛び出し、たっぷりと歩いてきた。やっぱり外の空気は気持ちがいい。

11月21日 玄関のリフォーム工事が終わらない。雨のせいだ。玄関からの出入りが出来なくなって、ふだん家と事務所をけっこう行き来していたことがわかった。裏の洗濯干し場から出入りしているのだが、カミさんに「まるでコソ泥みたい」と笑われた。自分の家に入るのに背中を丸め窮屈な姿勢で、足元に注意を払いながら「侵入する」というのは確かにコソ泥だ。

11月22日 ブラジル・アマゾンの小さな村の物語を書いている。距離にすると日本から1万6千キロほど離れているトメアスーという日本人移民の村だ。最近はメールで簡単に情報交換が可能になった。現場に行かなくてもルポが書けてしまうほどだ。40年前、この村の取材を始めたころ、ひとつのことを確認するために、どうしても電話をかける必要があった。3日前から、うまく電話がつながるか、通信が混線や断線がないか、心配と不安で寝られなかった。電話で話していても、互いの会話が数秒遅れるから、会話はちくはぐ意味不明になる。そんなこんなで40年間に10度も現地に足を運ぶ結果になったのだが、今日もある建物の写真をメールで送ってもらい、自分の思い違いに気が付いた。便利になったが、自分の40年間の取材が意味がなかったような気もして、ちょっと複雑な心境だ。

11月23日 福島県の柿の木に現れたクマのニュースを流して、その直後に画面が切り替わり、北海道のヒグマに襲われて顔を傷だらけにした人の映像インタビューが続く。恐怖や不安をあおるためならメディアはこのぐらいのことは平気だ。攻撃性という意味でツキノワグマとヒグマはまるで違う。意識的にその境界を外して「クマは怖い」というやり口だ。今年の異常発生を予想していたカメラマンのKさんは、その予測の根拠をこう言っていた。何年もクマの定点観測をしているが、「去年はほとんどクマが里に出てこず撮影が難しかった」。いつもの場所にいつものクマがいなかったのだ。「山中にエサ(ブナやドングリ)が豊富にあるというのはこういうことか」と実感したそうだ。長く現場でクマを見続けた人の意見は信用できる。学者や公務員はこうした現場をよく知る人の意見をもっと聞くべきだ。

11月24日 朝、ラジオで音楽を聴きながら仕事というか、仕事の段取りをするのが一日で最も「心落ち着く時間」だ。そのラジオの調子がずっとおかしい。ノイズがひどくて音楽どころではない。雨のせいだとばかり思っていたが、晴れてもダメ。ネットで調べたら、近くで工事中で電動工具を使ってる場合もノイズが出る、と書かれていた。うちは玄関工事の真っただ中、これが犯人だったのか、といっときは納得。でもここ数日工事はお休み。なのにラジオは雑音ばかり。「アルミフォイルでステレオ本体を包む」という変な雑音防止策もあったことを思い出し実践した。あら不思議、雑音は消えた。このへんは文系男には何がどうなっているのか、よくわからない。どなたかこの原理をご教示いただけないろうか。
(あ)

No.1187

北のまほろば
(朝日新聞社)
司馬遼太郎
 司馬の代表作でもある『街道をゆく』シリーズはあまり読んでいない。『秋田県散歩、飛騨紀行』というのもあるが、司馬自身の戦争体験と、象潟、菅江真澄や狩野亨吉、内藤湖南について項がやたら長く、それだけで終わっている印象が強い。秋田県人としては消化不良の思いが残る作品になっている。個人的には「山形・庄内」の項があれば読みたかったのだが、『羽州街道、佐賀のみち』があるだけで、この本に庄内にはほとんど登場しない。そんな中、本書はまるまる1冊が青森県。司馬にとっては東北とは、南部や会津、津軽のことで、この3つが「特別な意味を持つ地域」のようだ。書名の「まほろば」とは、大和(奈良)を故郷としていた人が異郷にあって望郷の思いを込めて大和を呼んだ古語だ。「中世という時代、十三湊とその周辺は〈北のまほろば〉だったかもしれない」という司馬の思いから付けられた書名だ。本書でも司馬の嗜好は強く生きている。津軽そのものより、周辺にある南部(下北半島)や会津(斗南藩)に関する記述が多いのが特徴だ。こうした外部から津軽を形どっていく方法だ。アイヌに関しても、下北半島の砂鉄がアイヌを呼び寄せたという説を披歴している。アイヌが欲しがった鉄器は「縫い針」である。斗南藩の歴史にも心動かされた。

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