Vol.1253 2025年1月4日 週刊あんばい一本勝負 No.1245

明けましたおめでとうございます。

12月28日 一年前、能登半島地震が起きた日だが、ブラジルから8人近い大家族が秋田市まで遊びに来る日と重なった。こちらは地震の被害はなかったのだが、ほとんど被災したかのような、てんやわんやの一日だった。地球の反対側から来る彼らのために、お正月なのに頼み倒して運転手とマイクロバスを確保し、列車の遅れの状況を見ながら、どうにか大変な一日を乗り越えた。それがわずか一年前の出来事と言われてもピンとこないのだが、そのくせ、喫緊の一週間は「あっという間」に過ぎていく。え、もう週末なの? という日々が容赦なく続いている。時間は長いのか短いのか、よくわからない。

12月29日 高校時代、関心を持てなかった科目の代表が「地学」だ。不思議なことにその興味のない科目の担当教師O先生の名前だけははっきり覚えているのはなぜなのだろう。齢75になった今の自分にとってあの高校時代の「地学」は、最も知りたい知識の代表でもある。ということで、今年のお正月は地学の勉強をしてみよう、と『みんなの高校地学』(講談社ブルーブックス)を購入。何事もまずは「本」から入る。さっそく読み始めたのだが、最初のページから全くついていけない。気候変動の仕組み、宇宙の成り立ちと進化、日本列島と巨大地震、地球の46億年史……興味あるトピックスばかりなのに、理系の基礎知識がないから、基礎も常識も私に限っては全く通用しない。参ったなあ。めげずに読み進めるか、もうあきらめて柴田錬三郎『わが青春無頼帖』(中公文庫)に舞い戻るか……う〜ん、迷うなあ。

12月30日 去年から「梅干し」を毎日一個食べている。水分を取るため毎日一リットルほどお茶を飲むようになり、一緒に梅干しを一個食べるようにしたのが、習慣化したものだ。「梅はその日の難逃れ」という言葉がある。昔の旅人はよその水や風土病に当たらないように梅を持参したことから来たことわざだ。小さなころはよく「梅干し食ったか」と怒られた記憶もある。手持ちの梅干しが切れたら、お茶うけに何を食べようか。そんなことを考えながら過ぎていく年の瀬も、悪くはない。

12月31日 今年最後の日。来年もあいもかわらず現役で頑張るつもりだが、なぜそうも現役にこだわるのか、と考えて意外な結論に達した。ようするに「仕事場」が好きなのだ。仕事ではなく「仕事場」なのである。一日中閉じこもっていられる「自分だけの空間」をこよなく愛しているのだ。今日も大晦日なのに、いつもと同じように「行ってまいります」と家を出て事務所に直行した。仕事はいやなことも多いが、仕事場は好き、という変態だ。そういえば小学校のころ、「自分の部屋が欲しい」とごねて親を困らせた。そのときは廊下の一隅を区切って勝手に「自分の部屋」を作り、それで大満足だったことを覚えている。父親にしてから狭い家の2階をひとりで占領し、書斎らしきものを作って閉じこもっていた。その辺が「下地」としてあるのかもしれない。まあそんなこんなで、しばらくはこの事務所とともに生きていたい。よいお年を。

1月1日 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお引き立てのほど、お願いいたします。大晦日は、年越しそばと一緒に呑んだ燗酒が利いて、ドキュメンタリー映画『ハーブ&ドロシー』の途中からぐっすり寝込んでしまった。こりゃダメだ、と10時には床に入り、さっさと寝てしまった。お雑煮には餅2個がはいっていてペロリ。毎年、料理屋に「おせち」を頼んでいたのだが、去年からやめた。「おせち」は長持ちさせる必要があるため、ふだんより数倍濃い味付けをする。だから、どんなにうまい料理屋のものでも、「同じ味」というわけにはいかない。ありあわせのもので済ませるお正月も、それはそれなりに味なものだ。

1月2日 めずらしいことに月刊誌「美術手帳」(24年4月号)を買った。表紙の絵が素晴らしかったこともあるが、特集の「〈多様性の時代〉のコンテンポラリー・アート」が気になった。元旦は大晦日に続いて「ハーブ&ドロシー――アートの森の小さな巨人」というドキュメンタリー映画。2度目だ。元郵便局員の夫と図書館司書の妻のふたりが生涯をかけてコレクションした「現代アート」の物語だ。この続編もあり、監督はなんと日本人(佐々木芽生)だった。たまたまなのだが、雑誌も映画も共通テーマは「現代アート」だ。全く意識していなかったが、去年の秋から夢中になっている、「散歩中の風景を接写レンズで撮る」という個人的な趣味で、すっかり現代アートに目覚めてしまった。

1月3日 妙見山初詣登山。4年ぶりぐらいかな。登りはゆっくり45分。Fさんは初めてスノーシューを履いたので慣れるまで少し時間がかかった。初詣を済ませ、帰りは旧大平山スキー場跡をゆっくり一時間かけて降りてきた。旧スキー場からは対面にはオーパス・スキー場が対峙している。オーパスには結構な人数のひとたちが滑っていた。曇りのち晴れ、ときどき小雪という絶好のコンディションのなか、生き物たちの声が絶えた静寂の雪の森を歩くのは本当に楽しい。夜はFさんとシャチョ―室宴会。すき焼きの新年会だ。
(あ)

No.1245

砂のように眠る―私説昭和史1
(中公文庫)
関川夏生
 変わった作りの本だ。小説と評論が交互に6章ずつならんで1冊の本が構成されている。奇をてらったわけではなく、自分と自分に似た人々の生きた戦後を客観的に書く方法として考えたものだ。著者は私と同じ昭和24年生まれ。一人称で書かれた小説はほぼ「私自身」である。評論は1章に1本の当時の話題の本を取り上げ論じている。その本というのが「山びこ学校」「青い山脈」「にあんちゃん」「何でも見てやろう」「二十歳の原点」「日本列島改造論」だ。私が読んだ本は一冊もない。書名は誰でもが知っているベストセラーばかり。とくに「にあんちゃん」は在日朝鮮人の一家の日記で、ベストセラー後の一家の動向も興味深く、すぐにでも読みたくなった。小説はすべて一人称で書かれ、50年代後半から70年代初めまで。昭和でいえば30年代と40年代が時間的な舞台だ。選ばれた6本の本はその時代の精神を深く反映したものばかりだ。これまで昭和や団塊といった言葉は「意識的に」素通りしてきたが、この本で一気に自分自身のこととして身近になった。「団塊の世代」とは乾いた砂だ。団結とか連帯とか熱い言葉が好きなくせに、自分だけはまとまる意思がない。自分は独特と思って個性を主張するが、実はみんな同じ。まとめて掌に握ろうとすると、さらさらとこぼれてしまう。

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