Vol.1255 2025年1月18日 週刊あんばい一本勝負 No.1247

ニラレバとホットドッグ

1月11日 毎年この時期になると、本の雑誌社が出す『おすすめ文庫王国』という増刊号を買う。いろんなジャンルの文庫ベストテンから、だいたい2,30冊の本を、エイヤッと、アマゾンでまとめ買いする。本の雑誌社増刊号を信頼しているのは、書評をする各ジャンルの著者たちの人選がいいからだ。トリッキーで衒学的な人物が少ないからだ。今年はちょっと紙面に異変が生じていた。24年度の出版界の話題はガルシア・マルケス著『百年の孤独』が新潮文庫になったことに独占されていて、それ以外の本(文庫)の話題が色あせてしまったからだ。

1月12日 去年、ニラレバの旨い店を見つけた。エキナカの中華料理屋さんにふらりと入り、ニラレバが安くてうまいことが分かったのだが、よく考えればニラレバなんて自分で作れば簡単だ。牛乳で臭みを取り、小麦粉をまぶし、フライパンでこんがり焼く。あとはニラやもやしと炒めるだけ。調味料は醤油と砂糖と酒のみだ。ということで昨日、早速自分で作って食べてみた。今日の昼もニラレバ定食だ。もう自分の定番「得意」料理に加えてしまいたい気分だ。

1月13日 秋田市豊岩地区の伝統行事である「ヤマハゲ」を見に行ってきた。本家本元の男鹿のなまはげも観たことがないのに、いきなり超マイナーな「観光客ゼロ」の集落行事というのもギャップがありすぎる。ヤマハゲは鬼に威厳があった。「沈黙の畏怖」のようなものだ。家々を訪ねても、あいさつ程度しか言葉を発せず、子供のいる家では「ウォー」と2,3度、奇声を発するのみ。信じがたいほど寡黙な鬼なのだ。コマーシャリズムに毒されていないぶん、装束も質素で重々しい。般若を想起させる着色なしの手彫りの面、八郎潟の「藻」で編んだというモグと呼ばれる髪を被り、藍で染められた分厚い夜着は「夜ぶすま」と呼ばれる。ケラも着けないし、藁沓に素足。雪道ではいかにも寒そうだ。子供たちは本気で家の中を泣きわめき逃げ回る。鬼たちは家に入り込んでまで追い掛け回したりはしない。子供たちが観念して玄関先に出てきたら頭をなでて、あっさり家を出る。雪の闇夜から、こんな寡黙な鬼が出てきたら大人でもちょっと怖いかもしれない。

1月14日 病に倒れた作家の本が読みたくなった。それも女流作家のものが読みたい。そこで手に取ったのが山本文緒『無人島のふたり』(新潮文庫)。サブタイトルは「120日以上生きなくちゃ日記」。すい臓がんと診断され、抗がん剤治療ではなく緩和ケアを選び、余命4か月を宣告された作家の闘病記だ。58歳で急逝することになるのだが、夫と二人、無人島に流されてしまったかのようなコロナ禍での日々を、病の痛みや苦しみと共に、友人や読者への感謝や悔恨を淡々と書き残している。もう1冊は小池真理子の『月夜の森の梟』(朝日文庫)だ。夫の藤田宣永の死(肺がん)と向き合いながら、二人きりの暮らしを振り返り、その喪失の大きさを身辺雑記の中から綴ったエッセイだ。

1月15日 人間ドックの日。緊張はないのだが「今年こそ何か大きな病気が見つかって、大騒動」という、一抹の不安が消えることはない。でもまあそうなったらそうなったまで。こんな年まで健康に生きられたことに、まずは感謝だ。ドックを終えると食事券をもらう。それでラーメンを食べるのが恒例なのだが今日は、「アジフライ定食」。これぞ良識ある老人のふるまいだ。この1,2年で血圧が高くなった。尿にたんぱくが出てきた。体調はすこぶるよく、食欲もあり、毎日散歩を欠かさず、山も歩いている。なのに身体のいたるところで「劣化」はいやおうなく進行している。

1月16日 1月はバタバタだ。月末に新刊が2冊できてくる。加えて編集中の本が2本。これも2月には本になる予定だ。仕事外では読みたい本がたまってストレスも溜まっている。時間が許せばすぐにでも読みたい本が、机の横でいまかいまかと身をくねらせながら出番を待っている。ちょっと待ってね、と優しく声をかけているのだが、本心はすぐにでも仕事をうっちゃって本を読みたい。見たい映画もあるが、こちらは見だすと止まらなくなるので禁止だ。本はどんなに忙しくても寝る前にページを開く。昨夜は、四方田犬彦著『見ることの塩』(河出文庫)を読みだしたのだが、これがおもしろくて夜更かしをしそうになった。仕事に支障があるのでやめたが、イスラエル・パレスチナへの旅行記だ。上下巻のこの本をまとめ読みするのが今の希望だ。

1月17日 スーパーのパン屋さんでホットドッグを買った。ホットドッグは高校生の頃、喫茶店で初めて食べて衝撃を受けた思い出がある。コッペパンにソーセージを挟み、ケチャップや辛子で食べる。名前もしゃれているし、うまかったのだが、コーヒーよりも高い値段だったのが高いハードルになって、その以後、口にすることはなかった。それが先日、高校時代を思いだし、発作的にかごに入れてしまった。パンが温かかったので、家に持ち帰る前に車中で食べてしまったのだが、これが美味しかった。もともとアメリカのドイツ移民がフランクフルト・ソーセージを食べやすいように調理したのが始まりだ。「ドッグ」というのはダックスフンドのことらしいが、そこにはあまり深い意味はない。
(あ)

No.1247

自分とか、ないから。
(サンクチュアリ出版)
しんめい P
 サブタイトルは「教養としての東洋哲学」。発売数か月で10万部以上売れているベストセラーなのだそうだ。46判360ページの厚い本だが、活字組みはスカスカでイラストも多く、普通の本の組みなら100ページで済みそうだ。でも手抜きではない。「自分探し」の若者に向けてのメッセージだ。「無我」「空」「道」「禅」「他力」「密教」の6章だてで、東洋哲学の要人たちもまるで漫画の登場人物のように扱われる。荘子は「学校に来たことのない秀才」で、親鸞は「わざとテストでゼロ点を取り退学になる」やつだ。空海は「クラスの中心にいる人気者」で、ブッダにいたっては「教室の端で窓の外を眺めているタイプ」というのだから笑える。著者の「立ち位置」も面白い。劣等感丸出しで、自分で自分をいじり、黒歴史も包み隠さず自分で笑い飛ばしている。ユーモアとウエットに富んでいてエンターテインメントに徹しているのがいい。執筆のきっかけは「東洋哲学本50冊を読んだら〈本当の自分〉とかどうでもよくなった」という話を書くことだったというが、「内容は薄い」と著者自身が断定している。個人的にはよくわからなかった「禅」と「密教」について、なるほどそういうことだったのかと得心が言った。

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