Vol.370 07年10月13日 週刊あんばい一本勝負 No.366


二度も変質者にまちがわれて

夜中に窓から流れ込んだ雨水でパソコンに浸水、データを消失してしまいました。幸いというか、書きかけの原稿などはなく当座は困らないのですが、膨大な個人用写真画像や、こっそりつけていた「エアロビ日記」のデータを失い、落ち込みました。日記はもうかなり長く書いていたので、こんなこともあろうかと8割方はフロッピーに保存していましたが、ホント、バックアップはこまめにやる必要がありますね。いつ、どんなときPCがパンクしても少しも困らない、というのは仕事をするうえで、必須条件であることを痛感しました。
ウィークデー(水)に、栗駒山(秋田県側の秣岳まで縦断)の紅葉を見てきました。今週末になれば、もうあらかた終わっていたかもしれない、という絶妙のタイミングで形容しがたいほど美しい紅葉を堪能してきました。しかし、ここでもドジ。肝心のデジカメを車の中に忘れるという失態を犯してしまいました。1年に一回だけ、それも県内有数の紅葉のメッカの山に登ったのに、よりによってカメラを忘れるという、普段はありえない行動をしてしまうのですから、笑っちゃいます。カメラがなかったので、そのぶんしっかり心に焼き付けてきましたけど。
先週のことですが、けっこう心がささくれ立つ「小さな事件」が二つ。
ひとつはチェーン・レストランで「和風おろし・とんかつ定食」なるものを食べたのですが、おろしがいまひとつの味なので、「ソースをください」とお願いしたら、例によって「いらっしゃいませ、こんにちは」をくりかえすオーム娘が怪訝な顔で厨房に消え、別の娘が「どういうことでしょうか」とまた聞きにきました。「普通のソースが欲しいんですが」というと、その娘も首をかしげて厨房に消え、今度は支配人らしき人物が出てきて「何かご不満でも」と言い出したのです。とんかつにかけるソースが欲しいだけなのに、私は無理難題を吹っかける「変質的な客」として扱われているようなのです。「丁寧さ」を隠れ蓑にして、この人たちは自分で考え、決めることを放棄してしまったロボットなんですね。
もうひとつはエアロビ教室。レッスン終了後、横で神経質に自分の流した床の汗を拭いているオバサンが、私の場所の汗を「発見」、ものすごい形相で私にも床を拭くように強制してきました。レッスン後のフロアーの汗はインストラクターがモップで拭くのが慣例になっているのですが、その剣幕に押されて「はい、はい」とモップ掛けをしました。このオバサン、たぶん真昼間から主婦に混じってレッスンを受けている男(私)を「変質者」のように思った可能性があります。ホームレス(私)に対するような、その高飛車な態度は実に不愉快でした。フロアー全体の汗をチェックして全員に注意を与えるのならまだ筋も通るのですが、この手の自意識過剰な「暴走老人」は最近、本当に増えています。1週間で2度も「変質者」にまちがわれた安倍でした。
(あ)
秋田市郊外の山の入り口でマミ(アナグマ)の死骸。交通事故だろうか
秋晴れの広面

焼き芋はこれで700円。う〜ん高い

No.366

暴走老人!(文藝春秋)
藤原智美

 オビにある「新」老人は、若者よりもキレやすい、というキャッチフレーズは平凡だがうまいなあ。さすが文春。題名とのバランスが見事で、ついつい手が伸びてしまった。著者は55年生まれの芥川受賞作家で、この人の本を読むのははじめて。一抹の不安は小説家の書くノンフィクションはあまり面白くない、という過去の経験則だけ。でもこの小説家は、住まいと家族の社会関係を考察したノンフィクションなども数冊書いている実績のある人のようだ。そこに期待をかけて読んだのだが、やっぱり「取材」の甘さが気になった。ノンフィクションは取材対象の選定が大切な要素だが、その事例の選び方がちょっと安易で雑な感じ。新聞記者チームによる連載や、気鋭のフリーライターが長い時間をかけて足で書いたドキュメンタリーに比べると、ややアバウトさが目立つ。テーマは最高なのになあ。暴走する老人たちの事例を「時間」「空間」「感情」の3パターンに分類して論じているのは新しい。整理されすぎてる嫌いもあるが、詰めの作業が、けっきょくは他からの書籍の引用で語られるのはどうかと思う。結語の部分で取材者が他者の描いた文章に頼っるのはルール違反といわれかねない。小説を読んでいないので、えらそうな批判はしたくないのだが、ノンフィクションのおもしろさが薄いことは確かだ。

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