Vol.466 09年8月22日 | 週刊あんばい一本勝負 No.461 |
津軽書房・高橋さんの墓参り | |
弘前にお墓参りに行ってきました。津軽書房の高橋彰一さんのお墓です。亡くなってもう10年経つのですが、なんとなく今年のお盆に行かずに、いつ行くのだ、という気分になったためで、全くの個人的な理由です。 そういえば、同じころに亡くなった屋久島の詩人、山尾三省さんの墓参りも念願かなって今年の4月に行ったばかりでした。今年は、自分も還暦を迎えるという年のせいなのか、死に対してけっこうナーバスになっているのかもしれません。 還暦になると、「死」はひしひしと身近なものに感じます。死者への哀悼の意が心の中に自然にわき起こってきます。不思議なものですね。あわただしいばかりの悲しみの大合掌に包まれる儀式の中では、「悲しみ」はかなりの部分、外部から強制されたつくられた感情のような気がします。そういったものが時間に風化され、ささくれ立った棘がそぎ落とされ、故人を純粋に哀悼する気持ちが少しずつ膨らんでくるのです。自分の父親に対してもそうでした。三省さんも高橋さんも、そんな気持ちになるまで10年の歳月がかかってしまったということかもしれません。 最勝院というお寺で墓参りをすませ、弘前公園の近くにある津軽書房を訪ねました。ここは高橋さんの実家で、この場所で今も社員だったIさんが津軽書房を一人で続けています。パソコンもない昔の津軽書房そのままの仕事場で、Iさんは年に数本の自費出版と在庫販売で、高橋さんの仕事を、ゆっくりと静かに、仕上げている、という印象でした。 青森は「太宰治生誕100周年」とかでいろんな太宰関連のイベントが目白押しでした。でも「高橋さんはこんな風潮、たぶん絶対いやがったでしょうね」とIさんは笑っていました。夜はIさんを誘って、高橋さんが好きだったという弘前市内の蕎麦屋で、お酒を飲みました。そういえば30代40代と、金魚のウンコのように高橋さんのカバン持ちをしながら、酒の飲み方や蕎麦の食べ方といった、しょうもないことばかり教わっていたような気がします。10年ぶりにお墓参りをして、そうか、自分に仕事や生き方の師匠と呼べる人がいるのなら、高橋さんだったんだ、と改めて痛感しました。 (あ)
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