Vol.467 09年8月29日 週刊あんばい一本勝負 No.462


雑誌とメセナについて考えたこと

酒田市のコミュニティー雑誌『スプーン』がこの春廃刊になり、楽しみが一つ減ってしまった。レベルの高い内容を持った地域雑誌だった。といっても昨今流行の、ほとんど広告、お飾り記事でお茶を濁した無料のゴミ雑誌をイメージしてもらっては困る。地域文化と真正面から向き合い、広告は二の次、運営は地元の大きな印刷所の資金で賄われていた。いわゆるメセナというやつだ。それが、この不況で本業そのものの経営が苦しくなり、印刷所が資金支援から撤退、18年も続いたメセナ(フランス語で、企業が行う文化・芸術活動に対する資金支援)継続が不可能になった、というわけでの廃刊である。残念。

でもまだ希望はある。長野県の八十二銀行の財団法人が季刊で出している『地域文化』という冊子がまだ健在なのだ。送られて来るたびに読むのが楽しみなのだが、とにかく特集のテーマ設定のレベルがものすごく高い。毎回、信州文化に関する特集が組まれているのだが、この夏号は「山と人の関わり」。連載原稿は劇作家の別役実で、毎号の対談も全国的な有名人を登場させ地元の研究者たちと激論を戦わせている。この特集テーマをみるだけで高いレベルで編集運営がなされているのがわかるのだが、最近はそれだけでは飽き足らなくなったのか、「江戸庶民の生活史講座〈江戸を生きる〉」というシリーズ単行本まで刊行をはじめてしまった。一冊目は「近世銭勘定或問」で、今回が二冊目。テーマは「風呂屋・髪結・祭礼踊」である。江戸時代の文献史料から信濃地方の記述を抜きだし克明な解説をくわえるもので、秋田出身の私が読んでも興味津々の内容である。それ以後も「御用! 近世信濃の犯科帳」「江戸の旅」「古文書のなかの食」「さんざめく城下町」「江戸時代の家具・農具をさぐる」……とシリーズ企画は続く予定だという。ここまでくるとたんなる地域の文化事業の域を超え、単独の出版社としてやっていけるのでは、とおもえるほどの企画内容である。いやはやすごい。

そういえば、活字が大好きなのに、昔から雑誌は苦手だった。苦手という言い方はへんか。あまり強く興味の対象にならなかった、といったほうがいい。今も週刊誌から月刊誌、季刊雑誌に至るまで定期購読しているものは皆無だ。めまぐるしく変わって行くものにたいして付いていけないのかもしれない。と同時に、秋田で雑誌の刊行に携わってきた人たちのほとんどが「継続」できない現実を何十回も見せられてきたので、「広告」に依存する文化のあやうさのようなものへの恐怖感が抜きがたくある。だから自分がそうした雑誌刊行を目指したことはまったくないのだ、一方でくしたHPブログやミニコミ誌の発行に関しては、今も大きな可能性を感じていて、ミニコミ的な雑誌や新聞をネット上でどう展開するか、といった問題に人並み以上の関心があるのも確かだ。もちろん、広告が絡むと一挙に問題は複雑になるので、そこだけはパスろした運営内容にしたいのだが。
(あ)

No.462

一茶
(文春文庫)
藤沢周平

 へぇー、こんな本があったんだ。出張先の駅の売店で見つけ、買い求めた。一茶にも藤沢周平にも興味があるわけではない。興味はないが、歴史に登場する有名人物について、あまりに無知な自分を恥ずかしいという気持ちが年々強くなっている。こうした歴史や時代物の本は、楽しみよりもまずは「勉強」というノリというか意識で読む機会が増えているのだ。と同時に、江戸や明治といった時代への知識が昔よりついてきたせいか、「時代物」や「歴史もの」への抵抗感が薄れたのもハードルが低くなった要因かもしれない。最近でもは、むしろ積極的に歴史ものを読みたい、という欲求が強くなってきた。読み始めて驚いたのは、主人公の一茶が「よく書かれていない」こと。これにはびっくりした。素朴な作風で日本人には人口に膾炙した俳人が、ある種、ダメ人間の典型として描かれている。徹底的に貧しさにのたうちまわり、「遺産横領人」として汚名を残し、60を過ぎるまで独身で(貧しさのため結婚できず)、晩年にめとった若妻とは荒淫にふけり、「俗事にたけた世間師」のような視点で、藤沢は一茶を描いているのである。けして「偉人伝記小説」でないところが本書のミソと言えるかもしれない。本書を読む限り、確かにお世辞にも一茶という人物は、ほめられた人間ではない。いや、ほめようがない、というのが正解かもしれない。読んでよかった。

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