Vol.486 10年1月9日 週刊あんばい一本勝負 No.480


Tさんの会社が閉じてしまった

年末に取次店の友人から電話があり、信州にあるTさんの出版社がギブアップしたとの連絡を受けた。正式発表は年明け早々ということで、このニュースはどこにも流れなかったが、確か去年の同じ時期にもいろんな出版社の破綻が報じられたんじゃなかったっけ。もうずっと過去のことのような気がするけど。

Tさんは小生と同い年。地方で出版をはじめたのも同じ時期で、よくライバルとして互いの会社が並べられてメディアに紹介されたこともあった。Tさんは日本各地域の今昔写真集出版のビジネス・モデルを作った人だ。一時期社員が50人近くもいた地方出版社の雄のような大会社だったが、個人的な問題から退社、同じ信州で別の出版社を立ち上げた。そのころからお互い忌憚なくいろんなことを話せるようになったのだが、Tさんには昔とった杵柄ならぬ写真集ビジネス・モデルの夢を追い続けるところがあり、「もうそんな時代じゃない」となんどか進言したことがあったが、やはりあの夢は忘れられなかったのだろう。

皮肉なことに、いま、秋田市では彼が作り上げたビジネス・モデルの落とし子である秋田市の今昔写真集が刊行されたばかり。秋田市の多くの読者は、この地域写真集が信州で編集されていることなどご存じないだろう。街に出かけると書店店頭でいやおうなくTさんが作り上げたそのモデル本のたて看板がいたるところに目に付いてしまう。そのたびに今はその会社にいないTさんの無念さに胸が痛む。この地域写真集の版元とて、そんなに先は長くないだろう。言い方は悪いが、まるでコソ泥のように日本各地で雪だるまを作るようにインスタント写真集を作り、逃げるようにほかの地域に移動する。そんな「根無し草出版」が通用する時代ではない、と小生には思えるのだ。

それはともかくTさんが消えると、小舎は地方出版社の古株トップに、なってしまう。津軽書房の高橋さんや葦書房の久本さんなきあと、その後の世代といわれた私たち戦後世代すら、もう数えるほどしか残っていないのだ。老兵は消え去るのみ、というのは正しい。Tさんの退場はそのことを強く意識させてくれた。はじめるのはたやすいが、幕を引くのがけっこう難しい、という言い方もできる。すごい時代になったもんだ。

(あ)

No.480

無理
(文藝春秋)
奥田英朗

 誰も指摘しないだろうが、あえて言っておく。この小説の舞台は合併してできた東北の地方都市。仙台の近くの、どこにでもありそうな町なのだが、登場人物たちはいっさい方言を使わない。これは著者自身、岐阜生まれでヘタに方言を使ってリアリティを削ぐことを恐れ、意識的に標準語でしゃべらせているのだろう。うがちすぎかなもしれないが、わざわざ舞台を東北の地方都市に設定したのに、方言を使わなかったのは成功している。そういえば伊坂幸太郎も仙台が舞台の小説が多いのにほとんど方言は使わないね。それはともかく、舞台は東北の地方都市、ここで暮らすケースワーカーの男、高校2年生の女、暴走族あがりのセールスマン、新興宗教にすがるスーパーの保安員、腹黒い市議議員――この5人が物語の主人公である。それぞれのキャラクターが際立っている(いかにもいそうな)のは著者の力量によるもの。このうまさがなければとてもこの分量の物語を維持するのは難しい。物語は5人の物語が交互に語られる「群像劇」である。そして最終章、この5人が絡み合い、もつれあい、ラストを迎える。ここでラストの顛末は書けないが、そうか、こうくるのか。でも、これはちょっと安易では。

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