Vol.554 11年6月25日 週刊あんばい一本勝負 No.548


地震日記15  芝居・靴磨き・皿洗い

6月18日(土) 弘前劇場「家には高い木があった」(長谷川孝治作・演出)を弘前まで行って観てきた。素晴らしい舞台だった。身近な場所にこれだけの才能がいる。その幸せにうっとりした。小津の映画やウディ・アレン主演の「結婚記念日」(作はアレンではないが)観た時と同じようなインパクトすら覚えた。津軽の、ある老人の葬儀後の親族のひとときを描いた一幕の芝居。テーマは「田舎」とは何か? といってもいいだろう。いやぁみごとに「カッコいい」芝居だった。「がんばろう、ナントか」などという空疎なおためごかしのスローガンがどこにも見当たらないのも、いい。芝居や映画やコンサートをするのに「被災地支援」などという文字をわざわざ、どうして入れなければならないのか、私にはよくわからない。戦時中、「ぜいたくは敵だ」というコピーをまき散らした世相と似たような「危険なにおい」をこのコピーからは感じてしまう。久しぶりに見た芝居だったが演劇ってこんなに力があったんだ、と再認識。隣のお客は後半ずっと鼻水をすすりあげ泣いていた。私も邪気なくずっと笑い転げていた。いやぁ、すごい、かっこいい。演劇をみなおした。

6月19日(日) 今日も快晴。朝からバタバタしている。日曜日は恒例の今週の仕事の段取り。でも、その工程に従って処理しようとすると、どうしてもハイペースになってしまう。水曜日あたりでペースダウンというか息切れするのが常だ。昔から仕事前に工程表をつくるのがクセなので、これだけは一朝一夕にはなおせない。ま、これが自分の仕事の流儀だから、どうしようもないか。装丁を頼んでいたデザイナーが不慮の事故で穴があき、今週は急きょデザイナー探しで時間がとられることになりそうだ(実はこの10日、仕事を頼んでいた旧知のデザイナーが突然自殺。理由はわからない。5本ぐらいの仕事を頼んでいたから、うちの仕事文はきれいに大きな袋に仕分けされ、そのなかに私宛の「もいしわけない」という遺書が入っていた)。まだ若い人だが、何といっていいか言葉がない。合掌。

6月20日(月) 日曜日が快晴だったので、ドロドロになりっぱなしの山靴を全部洗い、ワックスでピカピカに磨いた。きれいになったら気持ちもきれいになったような気がした。気をよくして今日も快晴だったので10足近くある普段靴の汚れ落としも決行した。10足といっても、ものの2時間ほどで終了。やっぱり爽快感はあった。食後の皿洗いにも似たリフレッシュ感というのかな。身の回りをきれいにするって精神的にはかなり疲労回復に効果があるのでは? 

6月21日(火) 散歩をしていて突然ハンバーガーが食べたくなった。マックによって「一番シンプルなやつ」と注文したら100円バーガーが出てきた。安い! マックに入ったのはこの10年で2回目。コーラも飲みたくなったのでコンビニでコーラも買った。コーラも半生で片手で数えられるほどしか飲んだことがない。思想信条で食べ物を選んだりはしないが、食わず嫌いだけはいや、と日ごろ思っている。ま、そんなりっぱな動機で食べたくなったわけではないが、どちらも、どうってことのない味だった。

6月22日(水) 山から帰ってくると一番にやるのは道具を元の場所に戻し、洗い物を仕分け、ケアーの必要なものを整理、補充する。それが終わってようやく「ああ、山登りが終わった」という気になる。洗濯まで山登りの行程の一部なのである。昨夜は事務所2階で7名の宴会があった。ここでも終わってから1時間ほどかけて食べ残しをタッパに入れ、皿を洗い、そうじ。終わった後のかたずけが好き、というかそのままにできない性質なのだ。これは最近自分でもはじめて気がついたこと。ものを「再生する」というイメージが好きなのだ。 ちなみにカミさんは正反対の性格で、いつもイライラする。

6月23日(木) 2階の社長室は居心地がいい。一人なので音楽の音量も冷暖房の温度も昼寝も、自由だ。でも夏は西日で室内温度が40度近くにもなる。朝から晩まで冷房漬け。これは身体によくないので西日シャットアウト作戦を考えた。今ある窓に後付けできる樹脂の窓をもう一つ、つけた。西日70パーセント以上をカットできる、という宣伝文句によろめいた。どれほどの効果があるのか楽しみだが、取り付けが終わったら連日の雨。早く夏日が来てほしい。
(あ)

No.548

いねむり先生
(集英社)
伊集院静

きれいな造本だ。装丁は「鈴木成一デザイン室」。最近は良い装丁だなあ、と思うとほぼ確実に鈴木成一。古典(正統)的で力強く上品という三拍子がそろっている。装丁はいいのだが、この著者の本のいい読者ではないが、先日「大人の流儀」というエッセイ集を読んだ。面白かった。鶴太郎らしき芸人絵描きをこっぴどく小馬鹿にしていた。こうした批判精神が生きているかどうかがエッセイでは大問題だ。本書は色川武大と過ごした日々を回想した物語。自伝的長編と銘打たれているものの主人公はギャンブルの神様・色川武大で、その脇をマンガ家の黒金ヒロシや歌手の井上陽水といった人たちが彩どる。おもしろくない訳がない。半分以上はこうした主人公と脇役の人たちの鮮やかな個性が物語に絶妙の彩を花を添える形で成り立っている。ところでギャンブルだが、自分からは一番遠い「遊び」で興味がない。なぜなのだろうか。例えば経験はないが「離婚」は、もし経済的にゆとりある暮らしをしていたら、ありえたかもしれない。ではギャンブルにのめり込む可能性はあっただろうか……これは結論の出ない問答のようだ。する人としない人の境目を決定しているのは、何なんだろうか、本書を読みながらそんなことを考えてしまった。

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