Vol.568 11年10月1日 週刊あんばい一本勝負 No.561


酒うまく、食欲の秋に

9月23日 朝早くから事務所が騒がしい。中高年の女性たちの嬌声だ。今日から3日間、倉庫の引っ越し作業でアルバイトの人たちである。レンタカーのトラックと運転手、総指揮のWにアルバイト女性陣。みんな1か月前から今日の段取りを打ち合わせてきた。心配は天気で午後からは崩れる予想。小生の出る幕はない。昨夜も友人と二人、事務所で到来物の酒(一四代)を飲んでしまった。ノーテンキなもんだ。途中でのぞいたメールに重要な連絡が入っていて一挙に酔いがさめたが。今日はその処理に没頭しなければならない。

9月24日 仕事をするということはさまざまな問題やトラブル、誤解や齟齬、不安や戸惑いといったものと毎日向き合うこと。仕事が楽しいのに「早く引退したいもんだね」と同業者たちはよく言う。仕事のおもしろさは年々増していくのに、その局面にかならず付着しているこうした「問題」と向き合う気力や体力が、年々萎えていくからだ。仕事がなくなったら、という不安は付きまとうが、あればあったで厄介なトラブルも同伴する。トラブルも仕事の楽しみの一つ、という達観まではとても遠い。

9月25日 紅葉シーズンで山が賑わう前に静かなブナ林を飽くまで歩きたい。というわけで真昼岳。大好きな山だ。赤倉口から3時間の登りだが、岩場も急登も藪もない歩きやすい山。とにかくブナ林が圧巻で、派手さがなく、ひっそりたたずむ、ちょっぴり寂れた風情がいい。四人の山行だったが、ひとりバテ気味。体が重く最後まで苦しかった。ブナ林は相変わらず見事だったが、体調は最悪で腹立たしい。疲れるほど仕事なんかしてないんだけどなあ。

9月26日 朝、出舎すると玄関にお米が置かれていた。新潟産コシヒカリの新米だ。山仲間が朝早くに来て置いて行ってくれたもの。彼は朝4時ころに起きるそうだから、9時といえばもうフルスルットル走行中の時間帯なのだろう。それにしても秋田で他県産のお米をプレゼントされるというのは珍しい出来事かも。「秋田の人は自分のところのものが何でも一番だと思ってるようだけど、日本はもっと広いんですよ」と、いつも彼は行動で教えてくれる。こと味覚に関して彼から教えてもらったことは少なくない。60の手習いで果実酒造りまではじめてしまった。

9月27日 この頃気をつけているのは「ひとり飲み」。夜、飲みに行く機会はめっきり減ったが、カミサンが留守の時は夕食を作るのが面倒で外に出る。それは問題ないのだが、ふだん机に座って無言で仕事をしているせいか、周りに人がいるとやたらと饒舌になる。それが問題だ。二日酔いよりもひどい「自己嫌悪の明日」を再生産しているようなもの。酒の力も借りてハイテンションでしゃべっている自分を「やめろバカ」と叱っているもう一人の自分もいるのだが、おしゃべりの誘惑に勝てない。どうしてこう自制心がないのか。

9月28日 同業者が書いた『紙と共に去りぬ』という本があった。この書名は含蓄がある。震災以後、パタリと電子書籍云々の議論が消えた。「紙の本」と「電子出版」の間には黒電話とスマートフォン以上の差がある。両者にはデジタル文化という短くない時間が介在している。紙の本の編集者がいきなり電子出版のつくり手になれる、というのは幻想だ。電子本には、これまでになかった新しいスキルと知性を持つ「別物の編集者(出版者)」が必要だ。彼らだけが開拓できる特殊な分野といっていい。その能力のない私は、どう考えても紙(活字)と共に去るしかない。

9月29日 あきらかに例年とは違う。事務所の冷蔵庫に果物が常備されるようになった。「常備される」って、自分で毎週買いに行き補充しているだけなのだが。ミカンに梨、ブドウに桃、李やバナナまでがびっしり。恥ずかしい話だが果物を自分で買って食べるという「習慣」は自分の人生になかったこと。家で出されたものを食べるだけだった。それが今年に入って急に「果物っておいしい」と気がついた。遅い! そんなわけでおやつには甘物を極力控え、果物をたっぷり食べている。糖分、大丈夫だよね。

9月30日 長生きはするものだ。昨夜「わさび飯」なるものを初めて食べた。アツアツのご飯に1センチほどの厚さで粗くすりおろした馬わさび(ホースラディシュ)を敷き、その上に海苔をたっぷりのせる。あとはお醤油を回してアフアフと掻きこむだけ。最初は間違いなく辛味が舌と鼻を直撃、むせてしまう。それに慣れると、あとを引く感じで、もっと食べたくなる。二杯で辞めたが、できればもうちょっと食べたかった。もともとは新宿にある高級料亭の名物のようだ。それにしても馬わさびって西洋わさびでしょ。ローストビーフとならわかるけど、コシヒカリと相性がいいなんて、びっくりするよなあ。
(あ)

No.561

回天の門
(文春文庫)
藤沢周平

藤沢周平のいい読者ではない。それでも「一茶」を読んだときはびっくりした。一茶に対してほとんど愛情を感じさせない、辛らつで冷徹なその描き方に、逆に小説家の覚悟と言うのだろうか、凄みを感じた。生意気な言い方だが、この人の書くものなら信用できるなという印象だった。本書は同郷の人物・清河八郎の生涯を描いたものだ。実は先日、初めてこの清河の生まれ故郷である山形・庄内町を訪れ「清河八郎記念館」を見学してきた。いや本が先で、読んでから観てきたのだが、文字・文書類の多い資料館で、本書を読んでから行ったのは正解だった。幕末や明治維新に関する本に出てくる清河は、ほとんどが毀誉褒貶というより、悪しざまに「変節漢・山師・策士」といった評価で定まった人物として登場する。藤沢はこの「誤解の海」に漂う人物を一茶と同じような目線で身びいきを極力抑えて、ニュートラルに描いている。同郷と言うだけで英雄視したり、誇張が過ぎると、それは文学者としての死を意味する。清河に関しては小説以外の、たとえば本書のあとがきやエッセイのなかでは絶大なオマージュを惜しまないのだが、小説のなかでは女にだらしなく、おぼっちゃま気質の抜けない「草莽の志士」として批判的な言説も見え隠れする。このへんが藤沢の真骨頂なのだろう。

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