Vol.586 12年2月4日 週刊あんばい一本勝負 No.579


リベラルアーツから遠く離れて

1月28日 雪は降っていないが、寒さがこたえる。寒さにだけは強かったのに、これも年かなあ。寒さのせいか寝付きも悪い。寝不足が体力的には一番こたえる。そんなこんなで週末も山行は休み。事務所に居座って、たっぷりお仕事をする予定だ。ときどき休みに何もやることがなかったら、どんな気分になるだろう、と考えることがある。「仕事がない」というのが何よりも恐怖、というライフスタイルを長く続けてきた。年に数回は本当に何もすることがなく、途方に暮れた週末もあった。そんな時はさっさと山行、深く考えないようにしてきた。これからはそんなこともちゃんと考えなければならない年回りなのかもなあ。

1月29日 15年間、ほぼ毎日のように集荷や配達を担当してくれたCさんが宅配便の会社を辞めることに。40歳を超すと激務は体にこたえ将来が不安になったのだそうだ。宅配業は高収入、というのは昔の「伝説」で、今は仕事はよりハードに、収入は他の職種と大して差がない、というのが現実だそうだ。これまでのお礼も兼ね、Cさんを招き、ささやかなプレゼント贈呈。毎日利用して顔を合わせていたのに、会って話を聞くと、宅配業だけでなく他の職業についても何も知らない自分に唖然とする。ま、本業の出版のこともよくわからないんだから、いいか。

1月30日 「地元紙をとっているのは死亡欄を見るため」という言葉をよく聞く。知り合いの死亡を新聞で確認し、弔電や花をおくる。今も厳然とこうした慣習が田舎には残っている。そして地方新聞にとってはこの毎日の死亡広告が大きな収入源だ。最近、都市部では親族の死を誰にも知らせず「家族葬」という形でおくるケースが増えているそうだ。昨日、カミさんと話して、うちでも老親をおくる時は「家族葬」でと決めた。弔花や香典は固辞する。それにはまず地元紙に死亡広告を出さないことが前提。親族が亡くなると地元紙に死亡広告を出すのが決まり、という常識はそろそろ考え直したほうがいいころかも。

1月31日 NHKの朝ドラは欠かさないのに、そのあとカミさんはBSのワールドニュースを見るようになった。民放のワイドショーがあまりに下らないからだそうだ。そういえば先日観た邦画『おと・な・り』(09年製作)は現代の若者(カメラマンとフラワーデザイナー)のすれ違いを描いた恋愛ドラマで面白かったが、重要な舞台である二人の部屋にテレビはなかった。若者の日常にテレビがまったく登場しないのだ。都市の若者たちにとってテレビはもう生活の必需品でも何でもないのだ。

2月1日 夕食が終わってから邦画『漫才ギャング』を。苦手の暴力系映画だが、監督・脚本が漫才師の品川ヒロシというのに興味引かれた。ベッドに入ってからは川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』を読む。あまりに切なく詩的で、にもかかわらずリアリティある物語に泣いた。劇画チックなアクション映画(?)にコーフンし、静かで柔らかい恋愛文学に夢中に涙したわけである。同じ夜の出来事である。心の中の水と油が乱暴にかき混ぜられたような複雑な気分だ。そういえば、どちらも作者は30代なのかな。

2月2日 珍しいというより気持ち悪いほどの快晴。午後からは崩れて雪になるらしいが、ともかく青空がみえているだけで、「もったいない」ような特別な気分になる。北東北の豪雪被害がニュースになり各地からお見舞いのメールもいただくが、震災津波と同じように秋田市はほとんど例年並みの状況で、特別な被害があるわけではない。去年も豪雪だったが、あれも主に県南部の被害が甚大だった。いつもなんとなく、被害の中心からはちょっとはずれ、秋田市は甘い汁を吸っている塩梅。それにしても早く春よ来い。

2月3日 「何の勉強をしてるの?」と学生に訊くと「リベラルアーツです」。最近よく聞く言葉だが秋田大学にもあるのだそうだ。これもアメリカの流行なのだろうが、特定の専門分野を決めず幅広く学ぶ(文学から自然科学まで)教育のこと。要するに〈教養〉のこと。入学後の補習授業でアルファベットの書き方を教えている大学が週刊誌に取り上げられ、バカ田大学、アホ学生と揶揄されていたが、いや確かに一般教養は社会全体に欠けている、という実感はある。高学歴で立派な職業に就いているのに、生まれ育った土地の文学や歴史にほとんど無知な人も多くいる。そしてそのことをちっとも恥じていない。こういった人にも地元学のリベラルアーツは必要で、別に学生だけの問題ではない。
(あ)

No.579

ふしぎなキリスト教
(講談社現代新書)
橋爪大三郎×大澤真幸

この本は2011年度「私が読んだ本ベストワン」の最有力候補。決定でないのは他に読んだ本ですごいのがあったのだが今のところ思いだせない、という情けない状況のため。ベストワンと言ってもいいか。50歳を超えたあたりから外国の本を読んでも映画を見ても旅をしても、外国を根本的なところで理解できない自分を強く意識するようになった。西洋的な社会の根っこの部分がわからないのだ。それは日本の近代化の幕開けである「明治維新」についても似ていて、志士たちは何を恐れたのか、文明開化とは何なのか、列強(西洋)のなにが日本を揺さぶったのか、このへんがうまく理解できない。冒頭で大澤は、「西洋とは、結局、キリスト教型の文明である」「近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程だった」と言う。日本はキリスト教ときわめて異なる文化的伝統の中にある。世界の中では日本こそが異端であり、キリスト教についてほとんど理解しないまま近代化した「へんな国」と最初に認識するのが、世界を理解する近道のようだ。この本の面白さは、私のようなキリスト教への知識がほとんどない初心者が読んでも、かなり造詣の深い学者連中が読んでも、ともに面白い対談であるところだ。素人もプロも満足させる本というのは、ありそうでない。これは聞き出し役の大澤の果たす役割が大きい。

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