Vol.641 13年3月2日 週刊あんばい一本勝負 No.634


何かと身辺が騒がしくなってきた、このごろです

2月23日 このごろ夢見が悪い。夢の内容が「いやなこと」ばかり。いや、そうじゃないな。登場人物が、過去にケンカ別れしたり、ねじれた感情を抱いている人ばかりなのだ。夢の中ではその人たちとケンカではなく昔のように仲良く行動を起こしたりしている。ときどき夢の中で「あれっ、彼とはケンカ別れしたはずなのに、こんなに仲良くして……」と思ったり、反省したりする。これは、今ならケンカせずにうまくやれたのに、という願望や自省が形になって表れているのだろうか。それにしても連日登場人物は変わる。いろんな人と出会い、別れてきたんだなあ。

2月24日 またミスをしてしまった。昨日、事務所でちょっとした調理をしたので換気のため窓を開けて家に帰った。今朝、事務所に来てみると室内は一面雪野原。今冬一番の猛吹雪で、ほとんど外と変わらないほど雪が入りこんでいた。なにが3寒4温だ、バカヤロー。玄関前の雪かきも今朝はパスした。どうせ昼になるとまたやらなければならないからだ。昨日(土)も荒れる予想だったが、予想に反して午前中は青空がひろがった。絶好の山日和でめっけものの大滝山スノーハイクを楽しんできた。ま、1勝1敗の引き分けだ、それでよしとするか。

2月25日 河辺の山のなかにある「山の学校」に必要な資料(無明舎の資料本はほぼすべてここに寄贈)をとりに行く予定だったが、雪のため通行不能との連絡。予定を変更して街に「2013年豪雪」の記録写真を撮りに出た。といっても大袈裟な撮影会などではない。散歩がてら街のスナップを撮るだけだ。実はこうしたなにげない記録が後々けっこう役に立つ。だから、ときどき一眼レフのいいデジカメを欲しくなる。が、あれに手を出すと「撮らなければ」という義務感が生じて、やっかいだ。だから距離を置いている。毎週山に行くたびに20枚前後の写真を撮っているから、わが生涯で最も写真と密接な関係にある時期が「いま」なのだが、カメラは安物で十分。

2月26日 寝る前、肩のあたりが猛烈に痛くなる。加齢と寒さからくるものだろう。その痛みがなくなった。寒さが緩んだからだ。吹雪の毎日だが進路はゆっくり春方向に向いてるのだろう。そういえば、寝る前に毎日飲んでいた胃もたれ用「キャベジン」を、ダイエットを始めてからまったく服用していない。腹がくちくなるほど食べないから当然か。ここ数年、冬でも食べていたカロリーたっぷり森永ミルクアイスキャンディを買いに行かなくなって久しい。近所のコンビニのお姉さんは、オレに何かあったのだろうか、と心配してるかな。してないか。それにしても、太って見えるので敬遠していたモッコリ厚手セーターを着られるようになった。体重が落ちてチョーうれしいことのひとつだ。現在体重は8k減。ちょっとこのあたりに壁があるようで停滞気味だ。流行りのダイエット法に乗りたくはないが、最近読んだ藤田紘一郎『50歳からは炭水化物をやめなさい』は説得力ある本だった。

2月27日 ついに決行した。河辺の山里深い「山の学校」で、あのシュールストロミング(スウェーデンのニシン缶詰)を開缶した。一人では怖いのでSシェフを無理やり誘った。缶はパンパンに膨らんでいて、いつ爆発するかわからない。千枚通しで空気抜きのできる木工器材(Sシェフ自製)を作り、2重にビニール袋で飛沫防止、こわごわ缶を切った。ほぼ完全に開缶に成功したが、それでも車や衣服は半日間匂った。缶の中身は10年も経っているので予想通りドロドロ、数片の骨が散見できたが、とても食べられるようなものではなかった。うまく表現できないが「手についた生魚の匂いを濃縮、熟成したような」、食物としての甘さも少し香る匂いだった。この作業は今週末更新の「ヨロヨロ山行記21」で写真付きで公開予定。乞うご期待。

2月28日 まだ油断はしてないが、寒気が緩むのを身体で感じる。このまま春になってほしいなあ、無理だけど。お気に入りの湯豆腐はまだ飽きず夕食の定番だ。「かえし」で食べる湯豆腐のおいしさに目覚めたためで、結果的にこれがダイエットになっているようだ。その「かえし」はSシェフの丹精込めた手作り品。それを使い切ってしまい、昨夜は1か月前に作った自家製かえしで初の湯豆腐。カミさんにいきなり「かえしがまずいと湯豆腐も美味しくないわね」と罵られキズついた。でも自分でもまずいと思ったから、あえて反論はなし。氷砂糖を入れすぎたせいだ。かえしや出汁や漬物といった基本料理は、まだ自分の未熟な料理センスではハードルが高すぎるのかも。

3月1日 お昼に駅往復散歩が日課だ。駅前の喫茶店で30分くらいお茶して読書(新書なら3日で読了可能)。合計2時間ほどの昼休みなのだが昨日は足を延ばしてアトリオンの「野町和嘉写真展 聖地巡礼」へ。野町といえばスーダンの「牝牛の膣に息を吹き込む」少年の写真が有名だ。でも今回はテーマが違うのでないだろうなと思ったら、なんと会場どん詰まりに畳1畳大の作品が鎮座していた。圧倒的な迫力で声もなく見入ってしまう。それにしても野町さんの写真はすごい。表現としてのドキュメンタリーの神髄をみる思いだ。作品の絵葉書を買おうと思ったが、いいと思った写真の絵葉書だけがない。これは私の感性が偏っているのか、それともいい作品は絵葉書にしない方針なのか。
(あ)

No634

猫の領分―南木佳士自選エッセイ集
(幻戯書房)
南木佳士

本書に収録されたエッセイの9割方は既読のもの。が何度読んでも、いいものはいい。前に読んで感動したはずのエッセイなのに、2度目も感動しているのだから世話はない。これが活字の、いや表現のすごさなのかも。帯の「ああ、たどるべき路を一巡したのだ」というのも著者らしいいいコピーだ。内容は毎回同じことの繰り返しだが、それでも著者の本は新刊が出るたび買ってしまう。本の中で著者はこんなことを書いている。「よい文章を読むと世界が広がる。それは〈わたし〉の内にあった混沌の海が堅古な言葉で埋め立てられるからだ」。そうか、飽きもせず南木の本を買うのは、そうした理由によるものかもしれない。こうも書く。「でも、広がりすぎた世界で迷子にならぬために、起きて半畳、寝て1畳の身の丈を、歩む際の尺度の基本に据えることだけは忘れない」。著者の愛読書は大森荘蔵の『流れとよどみ』だそうだ。自分の心身のぶれを修正するのに用いているという。この本も読みたくなった。印象的だったのは「豆腐とヨーグルト」というエッセイだ。ヨーグルトだと思って食べたのが豆腐だった、という息子のエピソードを、自分の結婚観になぞらえたもの。著者は妻を娶る時、豆腐だと十分に認識したうえで豆腐を食べた、そうだ。これには笑った。相手をすぐに理想の女性に仕立て上げるのは、女性に自分の美意識を投影させ、その己の美意識を愛しているだけ、というのだ。これは心に残った。

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