Vol.953 19年3月23日 週刊あんばい一本勝負 No.945


日々平穏、何事もないし

3月16日 土曜日だが静かに仕事をしている。朝一番でSシェフが「本マグロ」を届けてくれた。月に一度、中央卸売市場が一般オープンになり、ここで買う冷凍ではないマグロで、これが実に美味しい。昨日あたりから春DMが読者に届き出したようで、電話やメールで本の注文が入り始めた。昔に比べて直接注文はガクンと減ったが、DMのみを頼りに注文をくださる方はまだまだ多い。DMで入る注文はうちにとって大切な読者との直接コミュニケーションの場。でもDMの制作や発送にはそれなりの費用が発生する。収支はたぶん半々といったところ。読者と直接電話で話のできる場は重要な勉強の場でもあるから、もう少し頑張って続けるつもり。

3月17日 Sシェフと2人で大曲の西山3山(姫神山・神宮寺岳・伊豆山)縦走。スノーシューは飽きてきたのでツボ足で登れる山に行きたかった。最初の姫神だけで登って下りて2時間半、おまけに県内随一と言っていい急坂を這って登る。下山してから神宮寺岳に行き、伊豆山でランチをとり、約5時間の縦走を完了。山の中はずっと名残り雪がチラチラと舞っていてかなり冷え込んだ。

3月18日 筋肉痛だ。筋肉痛も考えようによっては満腹感に似て、昨日の山行の心地よい疲労感を思い起こさせてくれる。逆にちょっと心配なのはピロリ除菌対策が終わって急に胃酸が出るようになった。夜になると胃がしくしく痛くなって眠られない。強い薬はあまり服みたくないのだが処方箋薬であるガスター10を服んでいる。食べすぎ時には市販の胃腸薬で十分だったのに、もうこれでは効かないのである。もう一回、胃の中にピロリ菌を入れてもらおうかな。

3月19日 時計を変えた。朝、突然そう決めた。時計は4個持っている。ひとつは山用だが他は買ってからもう30年近くたつものばかり。最近はもっぱらネジを手で巻くアナログ時計一点張りだったが、自動巻きのものに変えた。時計なんかなくてもちっとも困らない。でも確実に身に着けるときの「ビミョーな気分」というのはある。

3月20日 昨日から本腰を入れて「本」にするための原稿を書きはじめた。「秋田学入門」といった感じの雑学エッセイだ。秋田の歴史や自然、文化や民俗を系統だった統一感は無視して思いつくまま「それってあるある」風のコラムにする予定だ。これまで朝日新聞や農業新聞に長く書いてきたコラムやエッセイの類をアレンジして、それに何本かの新しい原稿を書き加えるという体裁だ。昨日は新しい原稿を2本書いた。

3月21日 参勤交代や江戸屋敷勤務のため秋田から江戸まで当時の人はどのくらいの日数をかけて歩いたのだろうか。江戸中期の秋田藩家老・岡本元朝の「日記」によればこうだ。宝永元年(1704)、秋田(久保田)を4月7日に立ち、江戸(浅草)には21日に着いている。14泊15日間の旅だ。徒歩のみで移動総距離は557キロ。1日平均37キロ歩いているが多い日は46キロ近く歩く。岡本の旅は参勤交代ではなく単身の江戸屋敷勤務のため。集団行動と違うたから、参勤交代よりも2,3割時間短縮して考えるべきだろう。全旅程のなかで最難所は湯沢から山形金山に抜ける院内峠。14泊のうち3泊が秋田領内というのはちょっと予想外。朝10時に久保田を出て、協和の境でまず1泊。翌日は六郷に泊まっている。初代藩主の父の居城のあったところだ。佐竹南家のある湯沢でも供応を受け1泊。たんに秋田領が地理的に広大だったというよりも仕事がらみの用事や儀礼上の意味もあったと考えるのが自然だろう。

3月22日 北杜夫の『白きたおやかな峰』(河出文庫)読了。河出書房は意欲的に昔の本を文庫再刊してくれて感謝。この本は1965年カラコラムの未踏峰ディラン遠征隊に医師として参加した体験を小説にしたもの。一流の作家が書いた山岳小説だが、サポートする側から見た海外登山隊の遠征レポートにもなっている。驚いたのはこの小説では未踏峰に登頂できたかどうかに触れていないことだろう。頂まで100mに迫ったアタック隊の苦悶の様子が描かれたところで物語は終わる。この本はすでに古典であるが、ヘンな書名の本だなと少年時代に思った記憶がある。口語と文語の混交で日本語になっていない、と三島由紀夫がその書名にクレームをつけたそうだが、子供心にも同じような印象を持っていたのだろうか。まあ小説が面白ければどちらでもいいのだが。
(あ)

No.945

天明の密偵―小説・菅江真澄
(文藝春秋)
中津文彦

 サブタイトルの「小説・菅江真澄」に魅かれて読み始めたのだが、思っていた本とはまるで違った。つまらなかったわけではない。逆にすごくおもしろかったのだが、菅江真澄という主人公のステージがこちらの予想と全く違っていたことに驚いた。本書は平成16年に刊行されたのだが秋田ではほとんど話題にならなかった。端正な筆さばきで時代考証もしっかりした一級の時代小説なのだが、肝心の菅江真澄の秋田時代が「ほぼまったく」といっていいほど登場しないのだ。秋田に居なかった時代の真澄が舞台なのである。複雑な時代背景とともに北日本を彷徨した真澄の物語なのだが、秋田が出てこないと秋田の人はまるで興味を示さないのも事実だ。内館牧子『終わった人』も主人公は岩手県人だったため、秋田の書店では発売後数か月で店頭から消えてしまった。ちょっと狭量で排他的、目の前の人参しか見えない田舎臭さも感じてしまうのだが、著者の中津文彦は元岩手日報の記者だ。岩手日報出身の作家というのは何人もいるが、わが魁新報出身の作家というのは寡聞にして知らない。これも不思議なことのひとつだ。

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