Vol.1133 22年9月17日 週刊あんばい一本勝負 No.1125

ナンチャッテ登山のはじまり

9月10日 幕末、アメリカのペリーの艦隊が浦賀沖にやってきて、日米和親条約が結ばれることになるのだが、「ペリーって太平洋を何日ぐらいかかって日本まで来たの?」と高校生に訊かれた。ペリーはアメリカ人だが、出航したのは東インド会社で有名なインドのゴア、ここから沖縄を経て日本にやってきたのだ。私たちの住む出羽(秋田)という地域名が歴史に登場するのは和銅元年(708)。阿倍比羅夫の水軍が三度も訪れ、恩荷らと接触したのは越後国に「出羽郡」を建てるためだ。わざわざ関西(朝廷)から、たいへんな航海だ、と思っていたが、阿部比羅夫は「越の国」の人、新潟県人である。このことを知ったのは最近だから、とても高校生を笑えない。

9月11日 鳥海山が中止になったので一人で前岳に。前岳は近場だがアップダウンが激しく、いいトレーニングコースだ。と余裕でスタートしたのだが女人堂のはるか手前で足が動かなくなり、気力も萎えてしまった。けっきょく女人堂までは2時間、そこで引き返してきた。登る途中で「毎日太平山」のO先生と会うが「アンバイ君は何年生まれ?」と訊かれたので「昭和24年です」と答えたら、「なんだ、まだ戦後生まれか」と笑われた。

9月12日 HPトップ写真は説明が必要だ。何の変哲もない空き地だが、左上の家(料亭)の向こうに私の生家があった。ここは小中学校を通じての遊び場で毎日のように三角ベース野球をやった思い出の場所だ。70年以上、何も変わらずにそこにある場所、というのは珍しいので最近写真を撮ったものだ。写真手前には石川楼という大きな料亭が今も営業していて、ここは江戸期から院内銀山関係者の使う超高級料亭として東北地方で最も栄えていた場所だ。私は何ともすさまじい場所で生まれ育ったわけだ。

9月13日 前岳ショックをまだ引きずっている。無理に言い訳を考えれば「ワクチンのせい」にすることもできる。倦怠感や頭痛、ノドが渇く状況がしばらく続いていた。あの山歩きの疲労感はワクチンのせいで自分の体力が衰えていたわけではない。と考えると少しは安心と納得が得られる。でもそうじゃないよな、たぶん。基本的なストレッチや筋トレを怠れば、身体はどんどん楽な方向に勝手に舵を切ってしまう。筋トレをまじめにやろうと心に決めたが、それをあざ笑うように仕事がバタバタと忙しくなった。人生はうまくいかない。

9月14日 朝からパソコンの調子がよくない。新しいパソコンにしたほうがいいのかもしれないが、致命的な欠陥があるわけではない。ときどき、気まぐれに、ふてくされたように、ワードプロセッサがフリーズする。専門家に相談すれば「そろそろ新品に」と言われるのはわかっている。いま7冊の本を同時進行で作っている。ミスがないように、かなり神経質になっているのだが、こんな時に限ってパソコンは機嫌を損ねるようだ。

9月15日 ゴダールも死んじゃったか。スイスで安楽死というのはちょっと意外だ。このところ映画は意に反して、人がすぐに殺される苦手な戦争映画やスパイ・アクションばかり。映画をチョイスするとき、好きな作家や評論家が書いた「映画本」を参考にしているせいで、この人が推薦する映画なら大丈夫だろう、と選んでしまうからだ。『オフィシャル・シークレット』は湾岸戦争時の米英の政治的裏工作をリークした女性(スパイ)の話。スピルバーグの『太陽の帝国』は、日中戦争下の上海の捕虜収容所が舞台だ。イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』はイラク戦争だし、『顔のないヒトラーたち』はアウシュビッツのナチ関係者を裁判にかけるために奮闘する検事の物語だ。戦争映画には「ポリティカル・サスペンス」というジャンルもある。戦争物と言えば今もナチものが幅を利かせているのが現状だ。現代のナチ党員を探す旅に出た老人を描く『手紙は憶えている』は、ラストの5秒で大どんでん返し、びっくりした。

9月16日 大失態だ。1時半に毎日新聞のKさんが取材に来てくれる約束を失念、その時間に外出をしてしまった。事務所に戻るとKさんは帰った後。なんとかお詫びしてまた事務所に来てもらい事なきを得たのだが、アポを忘れるというのは珍事と言っていい。普段ならアポを忘れても事務所に閉じこもっているから大事には至らない。たまたま外出したのは、秋田大学の学食のカレーライスを無性に食べたくなったためだ。280円の小盛でも腹いっぱいになる優れモノだが、なんと飯の量は変わってなかったがカレーの量が劇的に少なくなっていた。薄い黄色の膜からゴハンが透けて見えるのだから、腹が立つ。これが「値上げ」の実態なのだろう。 
(あ)

No.1125

嫌われた監督
(文藝春秋)
鈴木忠平

 清原和博を描いた『虚空の人』が良かったので、大宅賞受賞作の本書も読んでみた。前後が逆になったわけだが、サブタイトルは「落合博満は中日をどう変えたのか」。本書は、この手の人物評伝にありがちな下世話なゴシップや世間のうわさ話、プライバシーには一切深入りすることをせず、落合周辺の関係者(プロたち)にスポットを当て、彼らを通した落合像をあぶりだしていく。当方も「人並みな」反落合サイドに立っていたが、読んでビックリ玉手箱。すっかり落合への見方が代わってしまった。といっても著者はほとんど落合をヨイショしてはいない。「落合」というフシギな存在によって根底から「人生が変わってしまった」人たちへの、奇をてらうことのない正面突破の取材から、知られざる落合像を浮かび上がらせているだけである。言動の不明や疑問をストレートで本人にぶつけ、禅問答のような落合の「答え」のなかに自らの生き方を重ねて、ジャーナリストとして真摯で真剣、愚直に、落合と向かい合う。この拙いともいえる愚直な取材方法が逆に新鮮で感動を呼ぶ。

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