Vol.1143 22年11月26日 週刊あんばい一本勝負 No.1135

悩み多き日が続く

11月19日 川内有緒著『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(集英社)を読了。なんだかよく分かったようなわからないような……。盲人の世界に興味がいや増したのは確かだが。この本を読み始めたのは井上ひさしの「藪原検校」のエッセイを読んだことに誘発されたもの。盲人は長い日本の歴史の中で、かなり重要な位置を占めていた存在であることを、井上の本で初めて知った。卑近な例でいえば安永元年(1772)、東北地方は大飢饉で、この年の暮れ津軽の座頭300余名が秋田藩に集団移住を企てた。五所川原を出て岩館の手前まで着き須郷埼の断崖絶壁で、なんと全員が海に落ちて絶命している。秋田藩が盲人たちを意図的に日本海の底へ導いたためといわれている。そんな時代、盲人のスター藪原検校は晴眼者など足元にも及ばない数々の大悪事をやってのけ、その悪事によって盲人の位置を晴眼者のところまで引き上げた、といわれる人物だ。江戸時代は座頭たちの生活にもちゃんとした定法のようなものが成立していた。旅を基本として村々を訪ね、庄屋衆の肩をもみ、浄瑠璃を語り、国による瞽官(こかん)制度もあった。検校になれば13口の配当米が保証され、それで安心して老後を送れるような仕組みになっていたのである。

1月20日 好天の山日和。メンバーもいつものモモヒキーズの4人、山は県北にある山岳仏教の拠点だった房住山。井戸下田登山口を出発し、枯葉の敷き詰められた山道のアップダウンを繰り返し、最大の難所ババ落としの急坂をはいつくばって登り、また緩やかなアップダウンで山頂へたどり着いた。木々の葉が落ち、遠く男鹿半島までがくっきり見え、山の空気は透明感に満ちている。ピストンで登山口まで戻って合計4時間の山行だった。帰りの温泉は脱衣場が狭くシャンプーもない小倉温泉。温泉の横の山にある中世の武将・山内氏の城跡も見学してきた。

11月21日 Sリーダーと二人、駅前にできたイタリアンのチェーン店・サイデリアへ。若ものだらけの行列のできる店にジジイがひとりで入るのは勇気がいる。そこでSリーダーに同行してもらった、というわけだ。ワインも料理も大満足、お会計は二人で6500円だった。秋田あたりでもちょっと気の効いたイタリアンに入ろうものならワイン込みで一人1万円以上は最低線というご時世だ。好きなものを何皿も注文しシェアーして喰いまくり、ワインをひと瓶飲み干して、ひとり3千円ちょっと、というのだからなんだか騙されているようで落ち着かない。何かカラクリでもあるのか。

11月22日 ある作家のエッセイを読んでいたら「咫尺(しせき)を弁ぜず」、「霏々(ひひ)と」という知らない言葉が出てきた。このワープロ印字で容易に漢字が出てくる言葉なので、たぶん常識の範囲内の用語なのだろう。「咫尺」のほうは「身近過ぎて距離が測れない」こと。「霏々」は「止むことがなく続く」という意味だった。

11月23日 先日の山行帰り五城目の温泉に寄ったのだが、その裏山に中世の山城・山内城があった。温泉ロビーにあった歴史由来解説によれば天正17年(1589)の湊合戦で「檜山安東の武将」である山内家の城跡と書かれている。湊合戦は檜山と湊の同じ安東家同士が戦って湊側が敗北した戦いである。しかしこの解説では湊側だったはずの三浦一門の山内氏が、滅ぼした側の人物になっている。まったくの真逆の歴史由来だが、たぶん何十年も堂々と、この温泉ロビーの一角に開陳され続けている解説標示だ。これまで誰からも異論や批判や抗議がなかったのだろうか。

11月24日 「幸せって何でしょうね」「そういうことを考えないことだね」……テレビの対談番組で、若いデザイナーの質問に養老孟司が間髪いれず返した「答え」だ。この一言で養老の新刊『ヒトの壁』を読んでみる気になった。思っていたよりもずっと硬派で哲学的で過激な内容に驚いた。残された日々を精一杯頑張ろうなどと思う元気はない。万事テキトーに終われればいいそうで、80歳を超え、考え抜かれた知性のぎっしり詰まった、味のある一冊だ。

11月25日 今日は家族で食事をする日なのだが、カミさんが体調を崩して中止。友人や来客との約束やお店の予約も、この頃は慎重になっている。その日まで何が起こるかわからない。いや何も起こらないほうが不自然と思えるような年齢になった。こちらが何もなくとも、お相手にトラブルや不具合や突発事故というのもある。で、約束は反故になったり延期になる。そういう可能性を考慮しながら予定を組まないと多くの人に迷惑をかけてしまうのだ。
(あ)

No.1135

ジャンパー着て四十年
(ちくま文庫)
今和次郎

 今和次郎は「柳田国男に破門され」て「考古学」ならぬ「考現学」を生み出した弘前市出身の建築家だ。その研究範囲は建築にとどまらず、服飾・風俗・生活・家政までに及ぶ。書名の由来は、「作法も知らないし服もないので」冠婚葬祭はすべてジャンパーで出席、皇族への講義も(高松宮か)ジャンパーで通したということからのものだ。なんだか青森県人の「ジョッパリ」そのままの人物だ。棟方志向や太宰治、寺山修司の系譜に繋がる頑固一徹な精神性が文中にも脈打っている。戦前戦後の日本社会を市中からつぶさに観察し、ユーモアたっぷりに服装文化の古今東西を語る、その語り口と視点が実に面白い。例えばケネディは大統領就任式にしっぽの垂れた礼服で装っているが、ジョンソン大統領はフツーの背広姿だ。これはカトリックとプロテスタントの違いだ。プロテスタントは中世末期の教会の諸行為に対する根本的な疑義から、一切の偶像打破、型式主義打破の信念をもっている。だから当然簡素な生活様式になる。その原点は王様の前でも帽子を脱がない(神にぬかづく以外は)精神に裏付けられている。いっぽう日本の礼儀作法は儒教系だ。日本の女性の服装が着物から洋装に替わる劇的な変化は関東大震災だそうだ。

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