Vol.1263 2025年3月15日 週刊あんばい一本勝負 No.1255

昔を振り返ってみれば……

3月8日 今年は珍しく原稿依頼が多い。外の世界はめまぐるしく動いているのに私の風景だけはいつもかわらない。世間は異動の季節。毎月書いている朝日県版の担当記者が転勤、2年余の秋田勤務だった。かなり長く農業新聞の書評の担当をしてくれたS記者も異動。先日は飲み友達の毎日新聞支局長も突然「転勤です」というではないか。送別会風の飲み会をやったばかりだ。なんだか私一人が取り残されていく。

3月9日 朝からさわやかな青空。見た目はすっかり春。思い切って冬用布団類を外に干すことに。寝室の窓を思いっきり開け放った。冬の残酷さは痛いほどわかっているから油断したことはない。春というのは「雪がない季節」で、あたたかな風と花々が咲き誇る、ある種の空気感のことではない。あくまで「風景」なのだ。モノクロームからオールカラーに切り替わる、劇的な時期が春で、それはまだ先かも。

3月10日 1986年、私は北朝鮮を訪れている。農業ジャーナリストという肩書で秋田県訪朝団の一員に押し込んでもらい、彼らの付録のように海を渡った。12日間の、いまも夢か幻かと思えるほど、浮世離れした、意味のよく分からない旅行だった。以後、アジアや南米、ヨーロッパといろんな国を旅してきたが、この北朝鮮ツアーほど刺激的で、不思議で、不可解なワンダーランドは2度と経験したことはない。北朝鮮がなぜ、いまのような奇怪な政治体制を作り上げたのか。その端緒は、毛沢東の文化革命にある。紅衛兵たちから、金日成は反革命、という批判をうけ、危機感を覚えた金日成は自国で逆に中国に迎合するかのように「上からの文化革命」を考え、実践する。「主体思想」なるものも古来の朱子学に、手垢にまみれた革命理論をまぶしこんだ、日本の新興宗教にも似た空疎なスローガンにすぎない。92年に出た関川夏央『退屈の迷宮』(新潮社)は、その辺の事情を最も核心的についた参考書になる。

3月11日 去年の暮れから、台風被害による屋根損傷や自動車自損で保険の世話になった。先日、窪田新之助『対馬の海に沈む』(集英社)を読み、保険の深い闇を描いたこのノンフィクションに衝撃を受けた。主役はJA対馬の共済担当の職員。人口3万ほどの島で、彼は「プロ野球選手並みの年棒」をもらう農協職員だ。「JAの神様」とまで言われた有名人だが19年、海に飛び込んで自死、44歳だった。彼は、架空の契約を作り、被害を捏造、顧客の口座に金を振り込むことを繰り返していた。白紙委任でいくらでも契約をとれたのは、彼を絶対的に信頼する島民のおかげだった。彼らも法的にはともかく、共犯関係にあったのである。自死した主人公の遺族には、農協から22億円の損害賠償請求がなされている。この巨額の横領事件の背景には、全島民の存在があった、というのが本書のミソだ。

3月12日 初めて会った新聞記者と会食中、彼に、秋田支局に赴任前は中東特派員だった、と言われて驚いた。身近にアラブやイスラエルに詳しい人がいる、というのは秋田にいるとめったにないことだ。先日、池澤夏樹『バビロンに行きて歌え』(新潮社)を読んだばかり。戦争中のアラブの若い兵士が逃亡中、ふとした偶然で日本行の貨物船にのりこみ、東京に着く。パスポートなしの密入国だ。名もなく武器もなく大都会に放り込まれたアラブの若者が、この日本でどう生きていくのか。彼を通り過ぎていく男や女たちとの触れ合いやすれ違いを、アラブ青年というよりは日本人たちを語り部にして群像劇のように進行する物語だった。日本には珍しいタイプの小説で、なによりもこのアラブ青年が、はでなアクションや、人を殺めたり、残忍な犯罪に手を染めたりしないのが、読後感をさわやかなものにしてくれた。

3月13日 もう3,40年前、何度か行ったことのある焼き鳥屋がまだ営業していた。フラリと入ってみたらメニューも店のたたずまいも変わっていない。今も人気の店のようだ。経営者は若い人になっていたが、食べるものがおいしくはなかった。40年前、こんな味を、本当においしいと思って、自分は通ったのだろうか。40年前は若くて貧しくて、これでも十分「おいしい」かったのかもしれない。若いころは味のハードルが低かったのだ。そう考えると、昔ながらの店構えや、やたら威勢のいい店員たちの立ち振る舞いも、貧相なものに思えてきて、長居できずに店を出た。

3月14日 今週はずっと寝る前の読書が楽しみだった。コスビー著『すべての罪は血を流す』(ハーパーBOOKS)は、私が一番苦手な、銃でバンバン人を殺し、猟刀でのどをかっきる、凄惨な殺人事件が連続する犯罪小説だ。主人公は黒人の郡保安官、舞台はいまだ白人至上主義の人種差別が大手をふるう南部ヴァージニア州の町。警察小説もノワールも猟奇もミステリーも嫌いなので、この手の本は読むことがないのだが、読了できたのは黒人社会や主人公家族の人間模様が詳細に記されていたからだろう。奴隷制が廃止されて150年、あのトランプを支持する白人至上主義者らは、いま現在も虫けらのように黒人を血祭りにあげることを「人生の重要な目的」にしている。映画「グリーンカード」も似たような現実を描いていた。アメリカの闇は深い。
(あ)

No.1255

見ることの塩
(河出文庫)
四方田犬彦
 本書は2巻本で、その「上」が「イスラエル/パレスチナ紀行」だ。「下」は「セルビア/コソヴォ紀行」で、こちらはまだ読んでいない。 イスラエルの旅行者は日本でもいたるところにいるが、実はイスラエルの人々は大の日本人好き、という事実はあまり知られていない。世界の文明国で「ユダヤ人差別」をしない唯一の国が日本、と小さなころから彼らは教えられているからだ。さらにイスラエルには世界でも厳しい徴兵制度がある。男3年、女は2年で、ともに18歳からだ。この兵役が終わると多くの若者は競うように海外に「青春の旅」に出る。この徴兵制度がすごい。3年の兵役を終えても45歳までは毎年、1か月間だけ元の所属していた連隊に戻り、訓練を義務づけられている。女性にも徴兵があるというのも珍しい。徴兵されている間は男女とも重い銃を身体から離さない。銃は身体の一部という感覚を身にしみこませるためだ。さすが周りをすべて「敵」に囲まれている国だ。60年代に世界中の若者を魅了した(私もその一人)集団農場キブツは、いまはエイズの温床になり、存続がやっとの状態なのだそうだ。以上のことは本書を読んで知ったことだが、当地に大学講師として赴任した著者によるものだけに、切迫感と緊張感にみなぎった紀行エッセイになっている。

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