Vol.161 03年10月4日 週刊あんばい一本勝負 No.157


応接室、ただいま満室

 ニュースに登場する率の低い応接室ですが、朝からひっきりなしに来客があり、台所の洗い場が茶碗でいっぱいになるような日もごくたまにですがあります。例えば10月3日(金)はこんな具合でした。朝一番、渡部がここで新聞のスクラップや再生紙の整理をするのが日課。10時から常連ライター永井、藤原両氏が製作中の調査プロジェクトの中間報告と今後のスケジュールの打ち合わせ。12時、盛岡からライターの林みかんさん(作曲家・林光さんの娘さんです)とカメラマンの佐藤勝彦さんが「東北の漬物」「乳頭温泉郷」の打ち合わせ。5時からは千葉から「北前船」の著者であるライターの加藤貞仁氏が来舎。彼は「箱館戦争」「東北おもしろ人物館」「東北・藩主の墓を訪ねて」(いずれも仮題)など、最も多くの執筆予定本を抱えている著者で元読売新聞記者。東京、東北取材の途中、事務所に寄ってくれたもの。打ち合わせのあとは「和食みなみ」で歓迎会…。こうした打ち合わせの合間に印刷所の営業マンがお茶を飲み、舎主が空きを狙ってソファに横たわり、舎員がここにきて新聞を読みます。少し堅めで、安物ではない応接セットを奮発してよかったなあ、としみじみ思う秋の夕暮れ時です。
(あ)
来客オンパレード

岡田謙三の生誕100年記念展はすごいぞ!

 秋田市千秋美術館で9月26日から11月30日まで「岡田謙三展」が開かれています。千秋美術館には岡田の常設館があり見慣れているのですが今回はニューヨークの美術館にある作品や秋田と同じく常設館のある北里研究所メディカルセンターからの出品もあり、常設とは一味も二味も違った中身の濃い展覧会で、お奨めです。そもそも岡田のような世界的な画家の常設館が何の縁もない秋田市(岡田は横浜生まれ)になぜあるのか不思議に思う人が多いのですが、これは同じ秋田市にある藤田嗣治の作品を所蔵している平野美術館が縁なのです。未亡人の、藤田と仲のよかった岡田の作品を藤田の作品のそばに置いてやりたい、という意向から秋田市は「棚からぼた餅」を得たわけです。

展覧会のパンフ
 最近読んだアメリカの科学ジャーナリスト・エレン・ラペル・シェル著『太りゆく人類』(早川書房)の一節に「NYの一等地にあるロックフェラー大学は、まさに夢のような場所だ。(略)壁にジェイムズ・ブルックス、ジョアン・ミッチェル、岡田謙三によるみごとな油絵がかかる大食堂…」という記述があった。藤田と同じように外国で評価の高い画家なのである。その全貌がこの展覧会で観られる。
(あ)

ハバギヌギ

 秋田弁で旅からもどって行う慰労会のことを「ハバギヌギ」といいます。ハバギは漢字で書くと脛巾となり、足の脛(すね)に巻きつける布のことで、旅から帰るとその布を脱ぐことから出た言葉でしょう。今年7月に行った無明舎出版のアイルランド舎員旅行のハバギヌギは、ISO審査や私の北海道出張、そのほかの忙しさが重なりまだやっていませんでした。そこでISO審査も終り忙しさが一段落した先週末、急遽やろうという話しになり、秋田市土崎にある土崎湊御蔵というビアホールに行ってきました。なぜ秋田市の中心部から離れた土崎で行ったかというと、ここでは秋田市で唯一、アイルランドで生まれた「ギネスビール」が飲めるからです。

ギネスのつまみが「カスベ(魚のエイ)のから揚げ」というのが土崎らしい
 当日のゲストはアイルランドに2回旅行に行っている藤原優太郎さんと、カヌー代表で国体から帰って来たばかりの山岡洋貴君、湊御蔵の近くで旅館を経営している萩原英樹さんの3人です。日本にはイギリス製のギネスビールが輸入されているため、「アイルランドで飲んだギネスと日本で飲むギネスは味が違うね」ということで皆の意見は一致。また行きたい、あるいは一度は行ってみたい国アイルランド、という結論でおおいに盛り上がったハバギヌギでした。
(鐙)

今週の花

 今週の花はワレモコウ、スプレーカーネーション、カーネーション、ネリネ、ゴットセピアーナ。白状すると、ネリネとリコリスの区別が全くつきません。近縁種なので本当にそっくりなのです。あまりにも分からないので、今ではこの2種類を見分けることは放棄しています。今回の5種類の中にはもうひとつ、似ても似つかない他の植物と勘違いしていたものがあります。それはワレモコウ。「吾亦紅」「吾木香」「割木瓜」などと書き、スイカの香りがするのだそう。勘違いの相手は「アカマンマ(イヌタデ)」。理由は、中学の頃の国語の教科書に「吾亦紅」を詠んだ短歌が出てきて、先生が「吾亦紅とはアカマンマのことだ」と教えてくれた(ような気がした)から。実物を見ずに言葉だけでどんな花か説明するのはとても難しいんですね。
(富)

No.157

てっぺん野郎(講談社)
佐野眞一

 500ページの大著だが一気に読んでしまった。さすが人物論を書かせると群を抜いた力量を発揮する。立花隆が「田中真紀子研究」で微妙にズレてしまった(少なくとも私にはそう見えた)のとは対称的で、本書は極めて優れた人物ルポになっている。こうなるとビートたけしや長嶋茂雄といった「現代の肖像」を今描きいれるのは(批評性を持って)佐野眞一しかいないのかもしれない、という気分にさえなってくる。本書で描かれた石原慎太郎像は、東京都民でなくても感じていた懸念、不安を見事に言い当てているように思われる。ポピュリズムの片棒を担いで(田中真紀子現象と同じように)批評性を持てなくなったマスコミに変わって、佐野がひとり、石原という偶像の前に立ちはだかって「王様は裸だ」と言ってくれたカタルシスなのかもしれない。田中康夫の「石原は小心な人」という言葉が、佐野の緻密な取材と論理で証明された爽快感といってもいいかもしれない。文学や政治(自民党)の世界で「挫折と無視」のトンネルをくぐり続けた男の、ちょうどいいおもちゃ箱が東京都だったのである。そういった意味では田中真紀子と石原は極めてよく似ている。

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