Vol.171 03年12月13日 週刊あんばい一本勝負 No.167


舎内はすでに年末モード

 急激に寒くなってきた秋田です。舎内はすでに年末モードで、来年早々に出る本のツメの作業に追われています。事務所には毎日ほぼ全員がそろってデスクワークにいそしんでいるというのも年末ならではの光景です。今年の業績は終わってみれば去年と変わらぬ数字でしたが、東京事務所の開設費用やISO取得費、「秋田のことばCD−RM」版制作外注費など予想以上の大型支出があり、税金は例年通り納めましたが、かなり重症の現金不足に陥り、てんやわんやの年の瀬です。
 もう少し計画的な資金運用が必要なのはわかっているのですが、そのへんの経営者的才覚はほぼゼロ、と自他共に認めているところなので、いかんともしがたい冬の空です。来年は大きな支出や買い物はありませんし、質素な経営に徹しますが、仕事は年々ハードになり、おいしい仕事などというものは消えつつあります。厳しくなる一方の環境の中で前年並みの売上をキープしていくのは至難の業です。規模拡大を戒め、初心のダウンサイジングを忘れずに一歩ずつ前進していきたいと思っています。
(あ)

シーンと静まり返った事務所

年末に三点の新刊

 これも計画性のなさをなじられるようなニュースなのですが、年の瀬も押し詰まってから次のような順番に新刊が出てしまいます。ほんとうに「出てしまう」という表現がぴったりで、新刊が出ても書店に本が並ぶのは来年になる可能性が大きいのです。恥ずかしい。

   12月17日 「刈穂」という酒蔵を訪ねて
   12月23日 写真帖 仙台の記憶
   12月25日 大河次郎兼任の時代

 本はそれぞれがユニークな視点から書かれた面白いものなのですが、刊行時期としてはクリスマスプレゼントに最適な「写真帖 仙台の記憶」以外は来年でもかまわなかったものです。なんともうまくいかないものです。こんなことで忙しい年末をさらに忙しくしているのですから自業自得というやつです。
(あ)
これが12月の新刊三点

ハタハタ復活

 この時期、秋田での魚の話題はハタハタに集中します。私たちが子供の頃ハタハタは豊漁が当たり前で、秋田では安い魚の代名詞でした。どこの家も冬の食卓はこの魚が主役です。シーズン始めは「おー、ハダハダだ」といって喜ばれるのですが、その主役がいつまでも続くものですからだんだん飽きられ、そのうち「あどハダハダだば見だぐね」といわれるのが常でした。その大量に獲れた魚も昭和43年の2万トンをピークにして徐々に獲れなくなり、平成4年には40トンと最低を記録しました。乱獲のためです。その後、秋田県は3年間の全面禁漁、稚魚の放流、そして解禁後は漁獲制限を設けるなどしてハタハタ復活の夢に挑戦しました。その後成果は確実に現われ、昨年の漁獲漁は2000トンまで復活しました。この数字は表向きの数字で、漁協を通さないで出荷されたものを含めるとその数倍になるといわれています。

北浦漁港に揚がったハタハタ。
漁船が次々と運んで来る
 おかげで一時は高値のため口にすることが出来なかったハタハタも、昔ほどではないけれどかなり安くなり、また食卓を賑わすようになってきました。先日、男鹿半島にある北浦漁港にハタハタ漁の撮影に行ってきましたが、帰りに北浦に住んでいる友人から魚箱ごとお土産にいただいて来ました。その後も友人や近所からいただき、毎日のように獲れたてを口にしています。もうハタハタを昔のように腹いっぱい食べることなどできないと思っていましたので、これは本当にうれしいことです。
(鐙)

今週の花

 今週の花は紫のチューリップ、紫のチース、紫の菊、白いガーベラ。今回は紫の花が3種類。しかも色のトーンがほぼ同じなので、まとまりすぎて地味になってしまいました。厳密にはチースの場合、紫の部分は実はガクなので「紫の花」ではありません。この中にさらに小さな花が咲くのです。他にチースにまつわる噂として、切花は水がなくてもOK、ほっとくと自然にドライフラワーができるなど聞いたことがあります。経験上、これらの噂はあたっています。今回も暖房の熱気があたる場所に置いてしまい、チューリップやガーベラはすぐにヘタってしまいました。が、そんな中でもチースだけは平然としているように見えました(触るとちょっとカサカサしてましたが)。翌日に気がついて涼しいところに移動したら、チューリップは見事に復活しました。ニンゲンには快適な温度も植物には向かない環境のようです。
(富)

No.167

単純な生活(講談社文芸文庫)
阿部昭

 著者の『無縁の生活』が今も深く印象に残っていて、書店で見かけた文庫版の本書を手にとったのだが、これは随想といったほうがいい作品だったのは意外だった。それでも阿部ワールドは健在で、めっぽう面白い。103項の身辺雑記を淡々と書きつないだものだが、項と項の間のつながりがあるような、ないような、まるで平泳ぎ選手のブレス(息継ぎ)のように、すばやく、さりげない技巧で、息継ぎが推進力にもなっている複雑なリズムが基底に流れているのは確かである。阿部の作品を論評するのは難しい。何の事件も起きないし、まるで身の丈以外のことを書けば馬脚をあらわしてしまう、とでもいいたげな警戒心はここでも徹底している。食事に例えれば、阿部の作品は、毎日決まりきった普通の家庭の「朝食オンリー」というところで、決してフランス料理もハレの祭り料理も懐石料理も出てこない。音楽で言えばバッハの単調さと極めて似ている。それでいて飽きないし、何度聴いても、毎日食べても飽きないのだから不思議だ。親から「けっして人の上に立つ人間にはなるな」といわれた友人がいる。軍隊経験と敗戦の経験がもたらした信念だという。阿部にも似たような経験があったのだろうか。老後はこの人の全集をゆっくり読みたい、と思いネットの「日本の古書店」で『阿部昭全集全8巻』を1万5千円で買ってしまった。

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