Vol.263 05年9月24日 | ![]() |
真澄好き集れ | |
菅江真澄ファンにとっては待ち遠しい、「第18回全国菅江真澄研究集会」が秋田県山内村で催されました。これは1年に1回、菅江真澄研究会が地元の協力を得て開催しているもので、私は初参加でした。奥羽山脈の山懐に抱かれた山内村に、それこそ全国から真澄研究者や愛好家が集り、2日間に渡って研究発表や現地視察会を行いました。今年は地元の山内中学校生徒たちによる「菅江真澄が出会った山内」と題された発表もあり、集った人々から盛んな拍手を受けていました。 |
無事、研究発表を終えた中学生たち。これから学校内に「菅江真澄文庫」を作って行きたいと豊富を語っていた |
研究発表が終わったあとは皆さんお待ちかねの交流会で、このために来た、という人もたくさんいるようです。一年ぶりの旧交を温めたり、自分がどのように真澄と関わっているか、時間を忘れて熱弁を振るったりする姿があちこちで見られました。2日目のお楽しみは探訪会です。今年は5台のバス分乗して村内8か所の真澄とかかわりのある史跡を訪ね歩き、真澄ワールドを堪能しました。 同じ江戸時代に旅をした芭蕉や伊能忠敬などに比べると、真澄の知名度はそんなに高くなく、生涯のうち29年間もすごした秋田でさえ大差がありません。しかし、真澄フリークの人たちの熱狂度はすごいものがあり、「なぜ芭蕉に比べて知名度が低いんでしょうね」などと質問が出ると、「良くぞ聞いてくれた。それはね・・・」ととどまることを知りません。そんな熱意に反して、今回の研究会出席者を見て思ったのは、このままだと高齢化のため次第に参加者が減少するのではないかということでした。同じ理由によって研究会員の自然減少も進んでいるようです。そんな中、山内中学校の生徒たちの発表は一筋の光明のように感じられました。発表の結論は「真澄の記録を通して感じたのは、そのころの山内村には金山があり、新田開発があり、南部藩境の村で交易が盛ん、などの理由から意外と豊かな地域だったようです」ということで、山内村に対する誇りがずいぶん芽生えたようでした。真澄の知名度・理解度アップにはこのような若い人たちの参加が必要だし、先覚の研究を基礎としながら、観光に活用するなどの新しい視点で真澄に取り組むことが無ければ、歴史の中に埋没してしまうかもしれません。 (鐙)
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気仙沼「鳥のから揚げ」は名物なの? | |
今月の後半は3連休が2回続き、その後の月末は小舎の舎員研修旅行で3泊4日の東京旅行があるので(小生は留守番)、ほとんど仕事になりません。早々と最初の3連休の中日に一関、気仙沼、唐桑半島を1泊2日で一人旅してきました。一関ではジャズ喫茶の「ベイシー」に立ち寄り菅原さんに挨拶、汽車時間があったので駅そばの書店にふらりと入ったら、内田樹の新刊『身体の言い分』(毎日新聞社)があったので買いました。おかげで旅の間中この本を読み続け、帰途にはもう一度斜め読みしました(これしか本がなかったこともありますが)。電車で本を読みながら、突然あの一関の書店の棚はただものではなかったことに気がつき、本にかかっている書皮カバーをみたら「北上書房」とありました。あの名作『祖母、私の明治』を出版した版元です。ということはレジにいたあの女性は何度か東京や仙台でお会いしている奥さんのはずで、挨拶もしなかったのが悔やまれます。町には人っ子ひとり歩いてないのに、この書店だけはざわざわと人がいて熱気があり、おまけに店はきれいで、二昔前の活況を呈していたころの書店を見るようでした。気仙沼ではホテルで紹介されたお寿司屋さんに行ったのですが、出前が忙しいらしく上1人前とお銚子一本に1時間かかり、勘定も4千円、不潔でまずくて怒りがこみ上げてきました。タクシーの話だと日曜日なのでいい店はすべて休みなのだそうです。翌日は朝早くからバスで唐桑半島を1周。近い将来、この地区の本を出す計画があるので下見も兼ねてなのですが、何ヶ所か見たいと思っていた場所がバスでは小回りがきかず無理と分かり、がっかり。今度は車でくるしか方法はないようです。ところで旅の間気になっていたのですが、一関や気仙沼では駅の売店や食堂、蕎麦屋からレストランはては寿司屋まで、「鳥のから揚げ」がメニューにありました。これはこのへんの名物なのでしょうか。店の人に聞くのも恥ずかしく疑問のまま帰って来てしまいました。 (あ) | |
一関の街なかを流れる磐井川ではいものこ会の最中でした。気仙沼の港は外国人船員もいっぱいでした |
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(富) |
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