Vol.338 07年3月3日 週刊あんばい一本勝負 No.334


天童はなかなかいい街だった

 この週末は車で山形・天童へ。うちの先祖はこの天童の北西にある「小山家(こやんべ)」という小さな城の城主だったそうだ。それが最上と天童の戦いの余波を受け、その地に居られなくなり秋田・増田に逃げ、帰農して安倍姓を名乗った、といわれている。400年前の1603年のことである。そのご先祖の城跡を見にいってきたのだが、ちょうどその場所で果樹園をやっているTさんが農作業中で、アポなしの来訪だったのにもかかわらず丁寧に対応してくれ、周辺を案内までしていただいた。りんごやプラムの木の間をぬって小さな山を走り回り、それから群立郷土資料館や市立図書館に行き資料類を確認、小山家城の対面にある天童城のあった舞鶴山にも登った。その後、ゆっくり街中をほっつき歩いたのだが、「華やかな温泉街」というイメージが強かったのだが、文化的にも成熟している街で、先祖の地であるという身びいきをさっぴいても、奥の深い、好きになれそうな街だった。美術館も充実していて広重美術館、斉藤真一心の美術館、出羽桜美術館まで個人の美術館も多くあり、そのほとんどを1日がかりで駆け足で観て来た。有名な「水車そば」にさして感心しなかったが、近くにあった小さな老夫婦のやっている団子屋さんのお団子は美味しかった。街中どこもが「古今雛」の展示が花盛りで、この雛人形の多くは京から買ったもの、というのも驚いた。紅花の生産地だったため北前船で地主たちが取り寄せたものらしい。雛たちの着る着物が紅花で染め付けられているのだ。いたるところで(温泉や山菜料理屋さんでも)古今雛の展示があり、ちいさなお店に入っても必ずどこかに雛人形が置いてあるのには感心した。今回は下見のつもりだったので安いビジネスホテルに泊まったのだが、今度来るときは奮発して温泉に泊まってみよう。
(あ)
城址の前には看板もあり、安倍家のことまでちゃんと書いてあった
ここが城のあった丘のてっぺん
反対側の天童城のあった舞鶴山から小山家城のほうを見る

No.334

農業は有望ビジネスである!(東洋経済社)
涌井徹

 07年度から、37年間続けられてきた生産調整政策(減反)に変わる国の新しい農業政策がスタートする。4ヘクタール以上(北海道では10ヘクタール以上)を「認定農業者」として補助事業の対象にし、それ以下の土地しか持たない農家は補助事業の対象からはずされる。日本の農家の97パーセント以上が4ヘクタール以下の小規模農家。農業従事者の過半数が65歳を越えたといういま、国は現在およそ320万世帯ある農家を40万世帯の大規模な「認定農業者」と「担い手農家」の2つに絞り込もうとしている。「担い手農家」というのは小規模農家でも集まって20ヘクタール以上の規模を持つ農業法人を形成すれば補助事業の対象とする制度だ。この本の筆者である涌井氏は、いわば日本を代表する農業ビジネスの第一人者、農政に対する過激な反抗者としても高名である。その彼の主張が、いまや異端や反逆ではなく、国が推進する「農業モデル」そのものになってしまったことへの、本書は高らかな勝利宣言でもある。しかし私たちが直面している食や農業の現代的な問題は、もっと別枠の深刻な暗部の中に閉じ込められたまま。涌井氏にもっとも手荒く接してきた「秋田県」という「敵」や、大潟村を崩壊寸前で生き返らせた「あきたこまち」という「救世主」についての言及があれば、本書はもっと深みのある読み物になっていたかも。

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