Vol.418 08年9月20日 週刊あんばい一本勝負 No.414


エコと環境は「手抜きホテル」の金科玉条

 週末になると、もっぱら一人で近隣の山に登っている。先週は3連休なので盛岡の駅前ホテルに2泊しながら真昼岳、八幡平・焼山、姫神山の3つの山に3日連続で登ってきた。3日とも晴天で、こんなに充実した連休を過ごしたのは、ホント久しぶりというか、久しくなかった。
 山はよかったのだが、泊まったホテルのインパクトもすごかった。
 駅前の、最近地方都市に乱立している5千円台のビジネスホテルなのだが、フロントもなければ、カード決済も自分でやる仕組み。寝巻きも歯ブラシも自己申告で、冷蔵庫は自分でスイッチを入れ、ゴミ箱も小さなものがあるだけ、分別ゴミ箱はホテル入口に1箇所のみ。クーラーは26度に設定されていて勝手に変えることが出来ない。従業員の女性はエコや環境を連発、連呼するのだが、その本質は「人員削減や反サービスの理由にエコを使っている」だけなのはみえみえ。

 その証拠になるような事件が夜中に起きた。夜10時過ぎ、突然、大音響でスピーカーから警告音が響き渡った。火事か地震だな、とあわてて着替え始めた。「7階で火災発生との連絡があり警報を鳴らしましたが誤報でした」とアナウンスは続いた。誤報なら警報は鳴らすなっ、と怒鳴りたかったが、まあ、よかった事故でなくて。
 うとうとしはじめたら、またものすごい警報音。「さっきいの警報は誤報でした」と、前と同じことを繰り返した。わかったって、もう。アナウンスはいいが、その前の警報音はわざわざ流す必要はないだろう。心臓の悪いお年寄りなら、あの音だけでショック死する可能性だってある。それを1度ならず2度までも。ムカムカと腹が立ったが非常階段では従業員が駆け下りたり登ったり、ドアを思いっきりあけたり閉めたり、乱暴な音が続いていた。ホテル内で何が起きているのか、警報を流すだけで何の説明もない。とんでもないアホ・ホテルに泊まってしまったなあ、と後悔しながら、ようやく眠りについた瞬間、またしても大音響でサイレンに似た警告音。やっぱり火事だったんだ、と服を着ようとすると、「……の警報は誤報でした」とアナウンスが続く。
 ここで、さすがの私も切れた。電話を入れると「すみません、すみません」と女性従業員は謝るだけ。その後2日間、チェックアウトするまで従業員からこの警告音騒ぎの説明は一切なかった。
 エコや人員削減もけっこうだが、ホテルにとって一番大切なのは安全と安心だ。エコや環境問題が「いいかげんさ」や「手抜き」の免罪符にされているのだから、ほんとに頭にくる。
(あ)

No.413

妻と僕(飛鳥新社)
西部邁

 重症のガンに冒された妻と向き合いながら、自己の半生や妻と二人の物語を哲学的に考察した本である。タイトルの「僕」という表記が気になったのは、昔、知りあいの編集者に「50歳をこえて〈僕〉という表記を使ってサマになる作家は沢木耕太郎くらい、あとはみっともない」といわれたことがあったからだ。著者も気になったようで、本文最初に、自分のことを「僕」と記す理由を述べている。それによれば「私」という言葉が嫌いなのだそうだ。「私」は稲(禾)つまり食べ物をめぐって他者に肘鉄(ム)を食らわす象形文字だそうだ。
 著者の妻は高校の同級生で彼女のことはMと記している。本文中に自死をほのめかす箇所がいくつか出てくるのも驚く。50代後半にはピストル入手作戦を練っていたという告白までしているのだが、「これ以上に延命すると、他者(特に家族の者たち)に与える損害が、その便益を、はっきり上回る」と予感されるなら自死を選ぶべし、と主張している。「人間の感情のなかで最も強いのは〈望郷〉の念ではないか」「人間の生は、他者に役立つような自己を公の場に現すということでなければ、すでに死んでいるのです」「言論人の端くれとしては、自分の死に恐怖すべきではないし、連れ合いの死に狼狽してもならぬ。(略)〈平和と戦争〉について語る僕が連れ合いの死に慌てふためく、というわけにはいかない」と、心打つ言葉が続く。

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