Vol.458 09年6月27日 | ![]() |
久保田城下の町を歩く | |
私は県南の湯沢市の生まれなのだが、先祖は山形天童の出自で、最上との戦いに敗れて、秋田の増田村に逃げてきた。秋田に移ってからは帰農し安倍姓を名乗った(なぜかはわからない)。そんな縁もあり山形にはよく出かけるし、山城のあった場所には(今は果樹園になっているのだが)、よく訪れる。地元の人たちも好意的で、果樹園には、そこが先祖の遺跡のある場所であることを明記した看板までたっている。 それと話は別だが、大学に入るために湯沢市から秋田市に出てきて、もう40年になる。ここ秋田市が実質的な故郷といってもいい。ところが東北各地を飛び回るような仕事をしているくせに、秋田市の地理や歴史に関して、ほとんど無知である。酒田や弘前、仙台のことは詳しい(と自分では思っている)のに、住んでいる秋田市に関してはまるっきりペケなのだ。その辺に実はコンプレックスがあったのだが、つい先日、うちの著者であり友人の藤原優太郎さんが、「久保田城下の外側の町を歩こう」という企画を立ててくれ、渡りに船と参加させてもらった。 佐竹の殿様が参勤交代の折、城下から出てから最後のお見送り地点となる牛島の「お茶屋橋」までバスで行き、そこから歴史散歩はスタート。楢山の路地をへめぐり、大町から通町に抜け昼食。午後からは八橋から歴史的遺跡の多く残る墓地や神社仏閣を延々と見ながら、戊辰の遺跡が数多く残る寺内まで歩いた。約9時間、歩数にして2万5千歩、13キロ余の長い散歩だった。炎天下と前日の寝不足(「1Q84」を夜通し読んでしまった)もあり、山歩きよりもきつい行軍だったが、初めて知る事実も多く、その知的興奮のせいか、最後まで集中力が切れることはなかった。 ほとんどが知識としては知っていても、初めて見聞するものばかり。戊辰戦争で亡くなった新政府方(官軍)兵士の墓地の横にある、おびただしい隠れキリシタンの墓には涙が出そうになったし、われらが編集者の大先達・滝田樗陰の墓も恥ずかしながら初めてみた。最も印象に残ったのは楢山地区の旧町名のカッコよさだ。楢山地区は足軽や中堅武士の住む町だったが、異論はあるものの町名のシンプルでいて深い命名が新鮮だ。内職でざるをつくっていた場所は「笊町」だし、水路に3枚の板を渡して通った場所は「三枚橋」、「酒田町」は海沿いの土崎にあった町を楢山に移してきたもの。もともとは北前船などで山形から移り住んだ酒田の人たちの町。「虎の口」は悪霊を吸い取る場所といわれているし、「餌刺町」は殿さまの鷹狩りの餌を調達する鳥もち竿つかいが住んでいたところ。「米沢町」は米の売買を許された一画で、「登町」は幟職人が多く住んでいたか、旗組に属する足軽だろうか。「追廻町」や「下浜町」「九郎兵衛殿町」なんて、実に粋でカッコいい。こうした町名を「楢山共和町」とか「楢山南中町」などという無粋な町名に変えてしまうのだから、神経を疑う。 (あ)
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